『痴愚神礼讃』

(賢明でなくて結構、愚かだから幸せだ)!




トップページ ギリシャ ヘレニズム ルネサンス





「エラスムス」



 一般的には当時の腐敗したキリスト教会やそれに関わる司祭などを批判した書物だと言われています。当然それらは描写されていますが、 この書全体に流れている精神は、人間は自惚れが強く、自分はすばらしい人間だと思いがちである。それを反省し謙虚であれではなく、大いに結構、 だから楽しく生きていけるのだという人生観である。確かに幸せは人が決めるのではなく、自分が決めるものだ。たとえ他人からうらまやしく思われても、 自分が不幸と思っていれば不幸だし、他人はなんと不幸なやつだと見ていたとしても、自分が幸福感に満ち溢れていればそれでいいのである。


−誰でも読めるシリーズ−


『痴愚神礼讃』(エラスムス)


1 トマス=モアにささげる

 この前、イタリア旅行を終え、イギリスに戻る馬車の中で時間がたっぷりありましたので、親愛なるあなた(トマス=モア)のことを思い浮かべながら、あなたと私の共通の関心事についてあれこれ考えてみました。場所が場所だけに、あまりまじめなことではないほうがいいと思い、痴愚女神を礼讃してみようと思いつきました。当然あなたは、痴愚女神などとは縁がないし、むしろ敵でもあろうことは十分承知のうえでのことです。
 ただ、あなたは人並みはずれた洞察力(どうさつりょく)をお持ちでありながら、一方で笑顔を絶やさないきさくな性格の持ち主ですので、このようなちょっと機転(きてん)のきいた冗談はたぶんお好きで、楽しんでくださることだろうと思い、書きとめることにしました。こういうしだいですから、この書はあなたのために書き、あなたに差し上げるものです。どうぞ手元において大事に保管していただきたいと思います。
 たしかに、このような書は軽薄すぎて神学を研究する者にはふさわしくないとか、キリスト教徒としては辛辣(しんらつ)すぎて慎(つつし)みに欠けるとの理由で非難する人間は多いことだと思います。また、話題の軽薄(けいはく)さや冗談めいた調子に気を悪くされる方もいらっしゃるかも知れません。しかし、この程度のことは過去多くの人々が言説(げんせつ)として残し、書として著されてきたことです。非難するくらいなら、ある一人の人間が遊びで書いたものだと思って読み流していただきたいと思います。
 どんな職業の人にも彼らなりの気晴らしがあります。まじめな学者にも気晴らしがあってもよいのではないでしょうか。冗談をまじえて表現したほうが、ただまじめなことを書いただけのものよりは役立つ場合だってあるのではないですか。また、つまらぬことをつまらない事でないように書くことは、ひじょうに愉快(ゆかい)なことです。その意味で、痴愚女神を礼讃したこの本は、つまらないことを題材としてはいますが、ひじょうに面白いものになったのではないかと思います。
 他人にかみつき茶化(ちゃか)すことは良くないといわれるかもしれませんが、文筆家には、一般の人間を書物においてからかう程度のことは許されてきたはずです。今の教会の偉い方々が自分をほめてくれることにしか耳をかさないことにはほとほとあきれています。また彼らは、キリストを冒涜(ぼうとく)するようなことに対しては平気なのに、教皇や王侯に対するきわめて軽い冗談でさえ、その人々にご厄介(やっかい)になって生活しているからでしょうか、決して受け付けようとはされません。いったいどういう考えをお持ちなのでしょう。
 私は、特定の人を名指しで非難したりはしません。人間にとって良くないことを批判し、忠告しているだけなのです。その中には当然自分自身に対する自己批判もあります。特定の人ではなく、あらゆる悪徳をとりあげているのです。もし誰かが自分を非難したと訴えられるなら、その人こそ良くないことをしているということを自ら認めていることになりませんか。この世には、具体的に名ざしで非難したものも目にしますが、この書は具体的に人の名をあげたりはしていません。人を傷つけるために書いたものではないからです。人々に楽しんでもらうために書いたものなのです。
 私は恥ずべきことよりも、笑うべきことを取り上げたのです。それでも心穏やかでない方がおられたら痴愚女神の話題となることは、名誉なことだと考えてください。弁論の士であるあなた(トマス=モア)にこのような言い訳は必要ないでしょうが、どうぞあなたもこの痴愚女神を弁護してやって下さい。


2 痴愚女神の礼賛

 この世の人々が私(痴愚女神)の悪口を言っていることはよく知っています。しかし、私だけがみなさんをウキウキした気分にさせることができるのです。その証拠に私が姿を現したとたんみなさんの表情が陽気になったではありませんか。先ほどまではあれほど心配そうな顔をしていたのに、お酒でも入ったかのように急に楽しそうな顔になっているではないですか。
 たとえば、太陽が昇り、あるいは厳しい冬が終わり新緑の春がやってきた時、自然の姿ががらりと一新します。まるでその時と同じでもあるかのように、私の姿を見るやいなやあなた方の表情はがらりと明るくなりました。有名な弁舌家が準備に準備を重ねてつくりあげた原稿をもとに皆さんの前で演説をして、どうにかみなさんから憂いを取り除けるかどうかなのに、私はみなさんの前に姿を現すだけでそれをやってのけることができるではありませんか。

 なぜ私が今日、こんないでたちで皆さんの前に現れたのか今からお話しいたしますので、どうぞ気楽な気持ちで聞いてください。ただ、今回は、詭弁(きべん)学者をきどって話をしてみようと思います。とはいえ、私は若者にばかげたことを注ぎ込んだり、単に口げんかのやり方を教え込むようなことをしようとするわけではありません。古代の詭弁家たちがさかんに神々や英雄を礼讃したことにならって、私もあるものを礼讃しようというのです。ただ、その対象とは私自身すなわち痴愚女神なのです。

 世間では自画自賛(じがじさん)するような奴は阿呆(あほう)者・馬鹿者だとさげすまれますが、私はいっこうにかまいません。いやそれこそが私に最も似つかわしいと思うからです。なぜなら、自分というものは誰よりも自分自身が一番よく知っているので、自分が自分を語ることこそ最も適したことだと思いませんか。

 まあ、私が自分のことをほめたとしても、どこかの偉い方々と比べればいたって謙虚(けんきょ)だと思いますよ。なぜなら、それらの偉い方々は、作家や詩人にお金を渡してわざわざ自分をほめたたえる大嘘を言わせたり、書かせたりするぐらいですからね。またこういうお偉方が人々の前で、まるで孔雀(くじゃく)のように羽を広げ、とさかを立てようものなら、恥知らずのおべっか使いどもがおおげさにほめたたえるものです。彼らのお世辞(せじ)は黒を白にし、蠅(はえ)を象にまでしてしまうものです。私のようにほめてくれる人が誰もいない場合は、自分で自分をほめるしかないではありませんか。

 ところで、私は人間たちの恩知らず、無頓着(むとんちゃく)にはほとほとあきれます。私ははるか昔からみなさんに多くの情を注いできましたのに、みなさんの中にこの痴愚女神に感謝の意を表される方は、一人もいらっしゃいません。自分に災厄(やくさい)が降りかからないように必死で神には祈られるのに、いろいろな情を受けているはずの痴愚女神である私に対しては恩を示し、礼讃してくださる人など一人もおられないのです。なさけないことです。これから私がお話することは、練りに練ったものではなく、即興(そっきょう)に思いついたものです。ただそれだけに嘘、偽りはありません。
 それだからといって、よくいる演説家と一緒にしないでください。彼らは、何十年もかけて仕上げた演説を、さも2〜3日で遊び半分につくりあげたものでもあるかのように装(よそお)って声高に演説します。しかし、私は決してそのようなことしません。頭に浮かんだことをすべて口に出すだけです。
 ひょっとしたら、みなさんは私が学者のように、痴愚女神とはどの位置にある神か、どのような役割を果たす神か、などの定義から述べると思っておられるかも知れませんが、そのようなことを言うつもりはありません。神の力をやれどれぐらいだとかいうことは適当なことではないと考えるからです。第一、現に私はみなさんの前にこうやって姿を現し、みなさんもそれを実際に目で見ているのですからその必要などないでしょう。私こそが、あなたがたに「真に幸福を分かち与える」ことのできる女神そのものなのです。

 私のこの姿を見れば、私が美や知恵の女神ではないことなどはすぐ分かるはずだと思います。私は化粧をしませんし、心に感じているそのままが表情に表れます。「獅子の皮を着たロバ」と呼ばれる人々のように賢人ぶったりすることはありません。ところが、人間の中には、私の仲間なのに私と関わり合いになることを恥じたり、中には人を罵倒(ばとう)する時、私の名前を用いる人もいます。そのような人は賢い人だと噂されたいと願っているだけの愚かな人間なのではないでしょうか。

 何か私も雄弁家(ゆうべんか)のように話をしてしまいましたが、雄弁家と呼ばれるようなご連中は、話の何カ所かに外国語を入れたり、あまり知られていない古い学術用語を入れたりします。そうすることで、たとえ間違っていることでもすばらしいものになるとでも思っているのです。聴衆者は聴衆者でその意味が分かる人は自慢げに反(そ)り返り、分からない人は分からないことで、ただただ感嘆(かんたん)するのです。また、みえを張りたい連中どもは、何も分からなくても分かったふりをして拍手喝采(はくしゅかっさい)をするのです。

 さて、私のことですが、私の父はあなたがたもご存じのプルトスという神です。この神は、その心しだいで神の世界も人間の世界もどうにでも自由に動かすことができる力を持っている神です。彼は、戦争も平和も政府も議会も結婚も同盟も遊学も勤労も人間のありとあらゆる公私のことがらをどうにでもすることができるのです。この神の力添えがなかったらどんな神もどんな力も発揮することはできなかったであろうし、あなた方だってろくな食事もできないことになるのです。この神を怒らせたものは救われようがありませんが、逆にこの神の庇護(ひご)を受ければ何をしても許されるのです。私は、父を誇りに思っています。そして父は、女神の中で一番淡麗(たんれい)で陽気な青春の神と「愛の契(ちぎり)」を結び、私を身ごもさせたのです。私は、どこかの神のように母親の頭の中から生まれ出たりはしません。私の誕生にいわく因縁などありません。ただ、通常の営みのなかで生まれたのです。ただ、今の老いぼれたプルトスを思い浮かべないでくださいよ。当時の彼は、若々しく青春まっただ中で燃えたぎっていた若者だったのですよ。

 今日ではどこで生まれたかがその者の身分の高さを決めますので、あなたはどこで生まれたのかとよく尋ねられます。私は、名高く有名な地で生まれたのではなく、種まきなどの労働をしなくても収穫できる福楽(ふくらく)の島で生まれたのです。
 この島には勤労とか老衰(ろうすい)とか病気というものはなく、また、いろいろなことに役立ちまた人の心をなごませてくれる植物が育っています。
 そこで生まれた私は、誕生するやいなや泣き叫ぶのではなく、すぐに母親に微笑みかけたそうです。そしてそこで、2人の魅力ある「陶酔(とうすい)」と「無知」と呼ばれる妖精(ようせい)の乳を飲みながら育ったのです。その2人は今も私のお供として私と一緒に行動してくれています。

 さらにそのお供の中には、そのほかに「うぬぼれ」「追従(ついしょう)」「忘却「怠惰」「逸楽(いつらく)」「軽率無思慮」「放蕩(ほうとう)」の神々、そしてさらに「美食」「眠り」の神々がいます。これらの神々はその時からずっと今でも私に仕え、忠実に手助けしてくれているのです。

 これで私の生い立ちは分かっていただけたことだと思います。次に、私が神々や人間にどのようなどれだけの貢献(こうけん)をしているのかについてお話しします。よく聞いてくださいよ。神々たるゆえんとは人間の苦悩を和らげたり、さまざまな利便をあらゆる人に惜しみなく与えるものだとしたら、それこそ私は神々の筆頭(ひっとう)に位置するものではないでしょうか。

 例えば、人間にとって生命以上に大事なものがあるでしょうか。人間の生命は誰のおかげで始まると思いますか。人間の命の誕生の源は私なのです。どんな偉大な神であろうと剣や槍(やり)や盾(たて)で子どもを作ることなどできないのです。子どもをつくろうとする時には、喜劇役者のようなお面をかぶった顔にならなければならないのです。
 やぎと同じようなあごひげをはやした厳格なストア学者であろうと、その時には学説も放り出し、愚にもつかぬことをしゃべり始めたり、さまざまな狂気沙汰(きょうきざた)までしでかすようになるのです。どのような人でも父親になるときには、私のお世話になるのです。
 私なくして子どもなどをつくることはできません。もっとストレートに言いましょうか。神々や人間はどこから生まれるのですか。頭から胸からですか。いえ、笑わずには語れないような下品ないや神聖な場所からですよ。
 そのうえ、結婚などの不便・不都合をあらかじめ計算できていたら、誰が結婚などするでしょう。また出産の危険・子育ての苦労を考えたら、どのご婦人が殿方のもとへなど行くでしょうか。それというのもその気にさせる私の侍女の「軽率」「無思慮(むしりょ)」というもののおかげなのです。
 さらに「忘却」という私の侍女がいなかったら、一度つらい思いをした人間が何回もあのような苦労をするでしょうか。つまるところ、このような戯(たわむ)れ事から、哲学者先生も修道士と呼ばれている人も司祭もこの世に生まれ出ることができたのです。これが事実なのです。

 私のおかげなのは、この生命の誕生だけではありません。実は、人生のあらゆる良いことはすべて私のおかげなのです。
 事実、快楽というものがなかったら人生はいったいどうなるのでしょうか。人生と言う名に値するものとなるのでしょうか。みなさんも、快楽こそ必要なものだと思っているみたいですね。ストア学派であっても人生における快楽までは軽蔑はしていません。いくら隠したって、また他人を快楽から遠ざけることはあっても、自分たちはしっかり快楽を味わおうという魂胆(こんたん)であることは見え見えです。この痴愚女神が味付けしなかったら、人生などもの悲しく、味気なく、不愉快でつまらないものになるのではないですか。「賢くなければないほど人間は幸せになることができる」と言った偉人もいるくらいです。

 人生の始めのころは、一番楽しく、喜ばしい時期ですね。幼児はなぜあんなにかわいいのでしょうか。それは幼児に痴愚女神の魅力が備わっているからです。だからこそ、幼児を育てる苦労を人々に対してその楽しさでつぐなってくれるのです。幼児はこのようにして、その最も弱い時期に、まんまと大人の保護を手に入れることができるのです。

 これに続いて、青少年時代がやってきます。この時代は、誰からも迎え入れられ、祝われ、励まされ、援助の手が差し伸べられる時期です。この青少年の魅力はいったいどこから出てくるとお思いですか。これも、やはり私がもたらしているのです。私は、彼らに生じてくる分別心をできる限り遠ざけ、彼らが煩(わずら)いというものを持たなくてもいいようにしてやっているのです。
 しかし、成長していくと、彼らは知恵や経験を身に付け、しだいにその愛嬌(あいきょう)は色あせ、溌剌(はつらつ)さは衰え、陽気さは冷え込み、その活気は減少していくのです。人間は、私から遠ざかれば遠ざかるほど、生き生きとしたところがなくなるのです。
 そのあげくの果てにやってくる老年期は、自分自身の重荷にもなり、社会の重荷にもなる時期なのです。やりきれない時代がくるのです。そこでまたしても、私が現れるのです。私は死にかけた彼らを墓場の寸前から連れ戻し、あの最初のような幼年期に戻してやるのです。もしそれがなされなかったら、誰一人としてこの老年期を我慢できる人間などいないのです。世間の人々が人は老人になると「子どもに戻った」ようだとよく言うのは的を得ている指摘だと思います。
 それでは、私はどのようにして彼らを幼年期に戻すと思われますか、隠す必要もないのでここで申し上げます。まず私は、彼らを小さな川に連れて行きます。そして、「永劫(えいごう)の忘却(ぼうきゃく)」という水を彼らに飲ませるのです。すると彼らは今までの苦労を洗い去って、若返ってしまうのです。すぐさま、彼らはめちゃくちゃなことを言いだしたり、幼子のような分けのわからないことを言い始めます。ですが、これこそが幼年期の特徴であり、魅力なのです。分けのわかった知恵を持った幼児などいやらしいお化けです。

 完全な経験と誤ることのない判断力を持った老人など、だれが友人にするでしょうか。老人とはわけの分からない、たわごとを言うような人でなければ付き合えないのです。そして、このたわごとこそが、賢人をさいなむ苦しみから老人を解放してくれるのです。それゆえ、そういう人こそ飲み友達として、適した者となれるのです。このような老人は人生への嫌悪など感じないし、立派すぎる理性をもっているならとてももてないような自己愛を平気で持つことができるのです。私が彼らに恵みを与えているから当人たちも幸福ですし、友人やその他、人々にとっても楽しい存在となれるのです。賢人の口からは苦々しい言葉が発せられるのに、彼らは座って楽しくしゃべっていれば幸せなのです。その意味では、老人は会話をする楽しみをまだ知らない幼児の上をいく幸せを持っていると思います。
 子どもと老人は姿形が違うだけであとはよく似ていますから、「類は友を呼ぶ」で実に仲がいいのです。両者の違いは、しわの数と年の数だけです。それ以外の毛の薄い頭、歯のない口、乳が好きなこと、物覚えが悪い事、不注意な点などことごとくそっくりです。ですから、人間は年を取れば取るほど、どんどん子どもに似てきて、ついにはまるで幼子のように人生を惜しむことなく、死を感ずることもなくこの世をおさらばすることができるのです。

 他の神は、どんなことをあなたに与えてくれますか。あなたの姿を変えてくれますか。鳥やセミやヘビに変えられるのがおちですよ。私はそのようなことはしません。その人をその生涯で一番幸福な時期へ連れ戻してあげるのですよ。もし、人間が知恵というものと縁を切り、絶えず私と一緒に暮らしていくのなら、私こそ、どんなに年老いても青春の快楽をあなた方に与えることができるのです。哲学とかの難しいことを若い時分からおこなっている、いやその厄介(やっかい)な事業の餌食(えじき)になっている陰気臭い人々は、青春を味わう前に老け込んでしまいますね。憂(うれ)いごとに苦しめられ、絶えず緊張して物事を考えているため、そういう人たちの生命の息吹は若くして徐々に失せてしまっているからなのです。ところが私の愛する瘋癲(ふうてん)たちは脂ぎっていて、皮膚もつやつやしています。いわゆる賢人病にかからないように用心さえすれば、年取ってもなんの不便不利もないのです。

 人間は賢人病にかからず、痴愚でさえあれば、いつまでも青春の状態で老齢とは関係なく暮らせるのです。私を崇拝すればそのようになれますし、そのような人は私とともにあることを恥ずかしいと思うどころか誇りに思っています。私こそ、老衰(ろうすい)という災厄(さいやく)を人間から遠ざけることのできる唯一の神なのです。私の力で若さが永遠に保たれるのです。私は大変な宝をあなたがたに授けることができるのです。

 話を天上の神々の世界に向けましょう。この世界に住む神々で私を頼りにしていないものは一人たりともいません。たとえば、その神々の中にバッコスの神がいます。彼は、いつまでたっても美しい頭髪をした若々しい青年の姿をした神です。なぜでしょうか。それは彼がいつも酔っぱらって、踊り、歌、遊びにふけっているからです。彼は賢い女神とは付き合いません。賢者呼ばわりされるのが嫌いですから、茶番(ちゃばん)や冗談(じょうだん)しか頭にありません。他の神々から嘲笑(ちょうしょう)され阿呆(あほう)の神と呼ばれても全く気にしません。彼は、恐れられるような神でも年老いた賢い神でもいつも灰まみれの鍛冶屋(かじや)の神でも戦いの神でもありません。しかし、いつも愉快(ゆかい)で若々しく、誰にでも快楽と喜びをもたらしてくれる、まさに阿呆(あほう)の神なのです。
 しかし、このような阿呆なんかには絶対になりたくないという人は一人たりともいないことだと思います。まじめなことは一切しないクビドと呼ばれる人々は、いつも子どものように生き生きとしていると言われていますよね。私と同じ一族の神であるウェヌスという女神はいつも金色に輝いていますよ。
 神々の世界でも愉快に楽しくすごしているものは多くいるのです。それらは、すべて痴愚女神をたよりにしているのです。

 それはそれとして、話をもう一度、地上の世界に戻しましょう。まず、私がいなかったらあなた方はどんな楽しみにも幸福にも出会うことはありませんでしたよ。
 ストア学派によりますと賢さとは理知に導かれ、痴愚とは情念に導かれることを意味するとのことです。しかし、人生を陰鬱(いんうつ)で悲しいものにしないために、神は人間には理知よりはるかに多くの情念を与えられました。それも20倍以上も多くです。そして理知を頭の片隅にとじこめ、体全体を情念で満たしました。さらに情念は、理知に対抗するために「怒り」と「情欲」を持たされています。この二つを相手にしたら理知はどこまで対抗できるでしょうか。いくら理知が人の道の掟(おきて)を守れと言っても、ついには降参(こうさん)してしまうことでしょう。

 そこで、人間の男はこの程度の理知では不足しているので、私は、彼らに配偶者と言われるものを与えることにしました。女は阿呆ではありますが、気持ちのいい動物です。生真面目(きまじめ)さも持っていますので、いろいろと生活のうえで困ったことを和らげてくれます。ただ、女性はどんなきれいな洋服を着ても痴愚は痴愚なのですよ。猿にどんなきれいな衣装を着せても猿であることと何ら変わらないのと同じことです。

 ただ私が女性を阿呆だと言ったからといって、女性であるあなた方が、同性であるこの痴愚女神をさか恨みするようなことはありませんよね。女性とはこのように痴愚であるがゆえに、殿方より幸せなのです。まず女性は美しさをもっています。ゆえに暴君と言われる者でさえその美力により抑え込むことができるのです。なぜ男性がいかつい顔をしてぼさぼさのひげでむさくるしい姿をしているかといえば、すべては賢さが犯したあやまちなのです。それに引き替え女性は柔らかい肌を持ち、その声は常に優しく、美しさを備えています。これは何のためか。そうです、男に気に入られるためです。それ以外に何の理由があるでしょう。そのために化粧をし、香油をつけて自分を飾るのです。それゆえ、男は約束をかわしてまで、そこに快楽を求めるのです。だから男にとって女は痴愚にこしたことはないのです。この痴愚ゆえに男を喜ばせることができるのです。男がこの快楽のためにどんなバカなことでもするのを考えてみたら分かることでしょう。これで、人生最大の喜びがいかなるもので、どこから生ずるかがお分かりになったことだと思います。

 しかし、特に老人の場合ですが女性よりもお酒を愛する人がいますよね。酒があれば、女性を交えなくても楽しい食事があると言われるかたもいらっしゃるかも知れませんが、私は、楽しい食卓には痴愚が絶対に必要であると考えます。食事においては、座持(ざも)ち上手な滑稽(こっけい)で洒落(しゃれ)のある道化こそが沈黙と退屈を追い払ってくれるのです。目や耳や魂すべてが楽しい話や冗談をたらふく頂戴(ちょうだい)してこそ、どんなものを口に入れてもおいしく食べることができるのです。実はこの食卓や宴会での余興(よきょう)を担当する神こそこの私なのです。たとえば、サイコロ投げ、乾杯、舞踏などすべて私が発案したものです。そんなものを賢人が作ってくれると思いますか。そしてこれらは、阿呆なものが含まれていればいるほど人生を楽しくさせてくれるものなのです。もし人生が始終もの悲しくて、悲哀と憂鬱(ゆうつ)に包まれたものならこれほどつまらない一生などありませんよ。

 一方ではこのような快楽をきらい、人生には友情ややさしさが必要だとおっしゃる方もいらっしゃることでしょう。彼らは、友情こそ空気や水や火に劣らず人間にとって必要なもので、これのない人生とは人間界から太陽を奪い取るようなものだとまで言います。多くの哲学者も友情は人間にとって最大の宝であるとまでを述べています。しかし、実はこれにも私が関わっているのだと言うと驚かれることでしょうね。

 しかし、よく考えてみてください。友人の欠点に目をつぶらせたり、思い違いをしたり、夢を見たり、さらには、その一番目につく欠点を美しいもの、長所として賞賛することなどと見誤ることとは、痴愚以外の何ものでもないのではありませんか。ある者は、愛する人間ならそのいぼさえも美しいといい接吻(せっぷん)し、相手が発する異様な臭いさえうっとりしながらかいでいます。また、ある父親はやぶにらみの息子を流し目をするなどと言います。これなど痴愚以外の何ものでもありますまい。このような痴愚こそ友情を保つ役割を果たすものなのです。
 欠点を持たない人間などいません。すぐれた人間とは、せいぜい欠点が最も少ない人間と言えるのではないですか。だから完全を求めがちな、賢人と呼ばれる人の友情は憂鬱(ゆううつ)なものですし、友達といえるものはほとんどいません。いると言っても、ほんのわずかです。なにしろ、世の中の大部分の人というものは頭がどこかおかしく、妙な言葉を口走るものなのです。それなのに、賢人はそのような人を友人にしようとはしません。友情などは、似た者同士の間でしか生じませんからね。
 たまたま、賢人同士が共鳴して集まっても気むずかしい連中ですので、その友情は不安定で長続きなどしません。彼らは鋭い目で友人となりそうな人間に対しても、その欠点を見分けてしまうからです。まあこのような人に限って、自分の欠点は背中のあざのように見えないものですがね。誰にでも欠点はあるのですから、人の欠点を見えなくする痴愚があるからこそ友情が末永く保たれるのです。「美しくもないものを美しいと思う」からこそ、他人は笑うでしょうが、人生は愉快(ゆかい)となり、人は幸せになれるものなのです。

 このことは、結婚についてもっとよくあてはまります。もし、思い違いとか愛想だとか媚(こ)びへつらいとか冗談とか虚偽(きょぎ)とかの神に働いてもらわなかったら、どれだけ多くの離婚やそれ以上の呪(のろ)わしい問題が起きてきたことでしょうか。もし夫が結婚前に貞潔(ていけつ)そうにしている相手の結婚前の遊びほうけている状況をもっと調べていたら結婚などどんなに減ることでしょう。また、もし妻の品行が、ばかで無頓着な亭主の目をのがれおおせなかったら、どんな固い契(ちぎり)も結ばれたままというわけにはいかないことでしょう。これは、愚かな行為であるとは言えますが、しかしそのおかげで両者は気に入り、結婚は続いていくのです。男はばかにされ、言いたい放題のことを言われますが、相手に接吻(せっぷん)しながらその不貞(ふてい)の涙をぬぐいとりながらも、一方で楽しい夢を見ているのです。しかし、このほうが、嫉妬(しっと)にさいなまれ、なんでもかんなでも悲劇にするよりはるかにましなことだと思いませんか。

 要するに、私がいなければどんな集まりもなく、楽しく安定した結縁もありえません。お互いに幻を作りあったり、互いにペテンが痴愚によりまるめ合うことがなかったら、下男と主人、生徒と先生、友人と友人、妻と夫のその他もろもろの関係が長い間続くはずはありません。みなさんは、こういうことをとんでもない話だと思われますか。決してそうではありません。どうぞ次の話を聞いてください。

 いったい、自分を憎んでいる人間が他人を愛せますか。自分といがみあっている人間が他人と折り合えますか。自分だけで精一杯の人間が他人を喜ばせることができますか。この世からみなさんが私を追い払ったら、あなたがたは他人を我慢するどころか自分自身を嫌い憎むことになってしまいますよ。女神などと呼ばれる神は、自己に対する不満や他人に対する羨(うらや)みの念をまきちらすだけですよ。しかもそれは、あなた方の人生を暗くし、つまらないものにしてしまうだけなのです。
 例えば、せっかくの美を持っていてもそれに対して嫌悪の感情を持つなら、それだけでその美はしなびてしまって何の役にも立たないものになってしまいます。生き生きとした青春時代も、じじ臭い憂いをもって過ごせば台無しになってしまいます。それでは何が幸せをもたらすのか。それは「自惚(うぬぼ)れ」です。この女神は、いつも私と力をあわせてくれますので、私の妹分です。自分に喝采(かっさい)をおくり、自分に自分が感心するほど阿呆なことがあるでしょうか。でも、自分に不満があれば、人前に出て愛嬌(あいきょう)など振りまけますか。そして歓迎されるでしょうか。「自惚れ」がなくなったら、弁舌家も音楽家も役者も画家もみじめなことしか、みじめなものしかできなくなります。他人に喝采を受けたいなら、めいめいが大いに自惚れ、自分が真っ先に自分に喝采を送るようになることが必要なのです。
 もし、人が幸福とはあるがままの姿でい続けたいということなら私の「自惚れ」は十分にその便宜(べんぎ)をはらってくれます。誰もが自分の顔・精神・生まれ・身分・教育・祖国などについて不満のないようにしてくれます。その結果、自分がほかの人間になりたいなどとは思わないのです。どんな不平等をも「自惚れ」は見事に消し去ってくれるのです。「自惚れ」の量をちょっと増やすだけで人間は最高の幸福を手に入れることができるのです。

 戦争はありとあらゆる武勲(ぶくん)の舞台であり源です。しかし、戦争など結局のところは、敵味方双方が損をするということが分かっているのに、やり始めるとは何と阿呆なことでしょう。何人死のうとものの数にも数えません。それはさておき、そんな戦争の時、勉強で消耗し、血の気の薄い賢人の先生などどんな役に立つでしょう。戦争の時は何も考えず前へ前へと進んでいく、太って脂ぎった人間が有用なのです。武器を捨てて逃げ出したという過去の賢人の話は、よく聞くところです。確かに、隊長の場合は、知恵も必要でしょう。ただ、この知恵とは哲学者に求められる知恵とは違います。戦うための知恵です。これは、灯をかかげ夜も眠らない哲人ではなく、盗人や強盗などカスと呼ばれているような人が持つ知恵なのです。

 最高の賢人とまで言われたソラテスですが、「彼以上の賢人はいない」という神託をさずかった時、そのアポロンの神自体が知恵を欠いていたのではないかと言われています。彼は演説をしようとしても皆に笑われるので、いつもそこを立ち去らねばならなかったとも言われています。ただ、「賢人とは神のみに言えることだ」と言ったことや「賢人と呼ばれるものは国家公共に口をはさむべきではない」と述べた点は評価できますがねえ。まあ、人間のうちに数えてもらうためには、賢人にならないほうがいいと言ったほうがもっと良かったと思いますがね。第一、彼が毒人参の汁を飲まなければならなくなったのは、まさにこの賢さのためではないですか。観念やらに哲学的思弁(しべん)をこらすことはできても彼には、人の世の普通のことなど全然わかっていなかったのです。
 プラトンなんかは、ソクラテスを弁護しようと大衆の前に出たそうですが群衆の騒ぎに仰天(ぎょうてん)して、用意したことの半分もしゃべれなかったそうですよ。演壇へ登ったとたんに黙りこくってしまった賢人もいたそうです。こんな人間に戦争にあたって兵士を鼓舞(こぶ)できたでしょうか。その他にも、雄弁家と言われた人で臆病で口すらきけなかった人、話をはじめるやぶるぶると震える人さえもいました。ある人はこれこそ危険を知る弁士の証拠だと言いましたが、私は賢いことが人を失敗に導くのだと言いたいのです。言葉だけの決闘でこれほど臆病な人間に剣を手にして何ができるというのでしょう。

 プラトンは「哲学者が国家を治めるか、国家を治める人間が哲学者になるかが必要だ」と言いましたが、歴史をひもといたら哲学や文学に見識のある人間が治めた国ほど悪いものはなかったのではないですか。歴史の事実がそれを証明しているではありませんか。数え上げればきりがありませんが、例えば、マルクスアウレリウスは哲学を修めていましたが、不人気でした。まあ一応良い皇帝であったことにしておきましょう。しかし、彼が国家に対して残した福祉より以上の災難をその息子は国家に与えましたよ。自分の賢さを窮(きわ)めようとする人間は、跡継ぎにろくな者を残さないということでへまをします。だから神は賢明であることの害悪が人間の間にはびこらないようにしているのだと思いますよ。キケロの息子も極道(ごくどう)者だったし、ソクラテスの息子も母親譲りのふうてん者だったらしいですよ。

 ところで、これらの賢人が日常生活でぶざまなことさえしなければ、たとえ公共の役職についても我慢しましょう。しかし、彼らはそうではありません。彼らを食事に招きでもしようものなら、その場が陰気で退屈なものになり、あげくの果てには退屈な談義まで始めてしまいます。舞踏に招いたらラクダの踊りだとしか言いませんし、しかめっ面しかしないので、他の人々を興ざめさせるので、見世物小屋からも追い出されます。
 みんなが楽しくよもやま話でもしているところに賢人でもやってこようものなら、まるでおとぎ話の中の狼と同じで、すべてを台無しにしてしまいます。また、哲学者などは、買い物をする、契約をするなどの日常生活において必要なことは何一つ自分ではできず、とても人間たるものとは言えません。まるで丸太棒です。自分のためにも他人のためにも国のためにも何の役にも立ちません。なぜなら、彼らは普通のことは何一つ知りませんし、世間で通用している慣習などには全く縁がないからです。他人からこのように切り離されているがゆえに哲学者に対する憎しみも世の中に生まれてくることになります。日常とは、この痴愚女神に則って、阿呆ふうてん同士の間で行われていくものなのではありませんか。たった一人で世の中の流れに逆行していく哲学者と呼ばれるような賢人は、砂漠にでも行って、一人さびしく自分の賢さを味わっていればいいのです。

 人々を敵から防衛したのは都市に集められた粗暴(そぼう)な人間たちだし、あるいは悪徳な役人に対する民衆の反乱をおさめたのは賢者の演説などではなく、たわいもない寓話(ぐうわ)を用いて分かりやすく説明した人々です。例えば、血を十分吸った蚊を身の回りから追い払わない方がいい。なぜなら、それをチャンスとして血に飢えた蚊がやってくるからだというような話をしたと言います。

 こういうばかげたものを用いてこそ、民衆というような力の強い獣(けだもの)たちを導いてゆけるのです。ギリシャの賢人のプラトンやアリストテレスの立てた掟(おきて)で、ソクラテスの教えで国が治まったことかがあるでしょうか。多くの人々が戦いの中、潔(いさぎよ)くわが命をそのためにささげたのは何のためですか。虚栄(きょえい)以外の何ものでもありません。賢人は銅像を建てられ、名前が彫られることが何の意味があるのかと言いますが、これがあるからこそ、英雄たちの多くの偉業(いぎょう)が存在するのです。国家も政治も法も保たれるのです。このように、この世界を成り立たせているのは、虚栄心や名誉欲に代表されるようなすべては痴愚女神のちょっとした配慮によるものなのですよ。

 優れた多くの知識がなぜ生み出されたり、後世に伝えられたと思いますか。それは名誉欲というものを満たすためだったのです。阿呆の人間たちは、徹夜をして汗水たらして、名声という世の中で空しいものを手に入れたつもりになっていたわけです。しかし、この名誉欲に関わっている痴愚女神のおかげで、今我々は貴重な利便性に預かっているのです。それを利用して生活しているのですよ。

 勇気や勤労の成果も名誉欲というものを人間に生じさせる私のおかげだということがお分かりになったことと思います。さらに思慮分別の功徳(くどく)も私のおかげだと言ったらどう思われますか。火と水を混ぜるようなことを言うなと言われるかもしれません。しかし、ちゃんと私の話を聞いてくださったら納得していただけることだと思います。
 例えば、思慮分別がある人だと褒(ほ)められるのはどのような人でしょうか。臆病(おくびょう)で謙遜(けんそん)ばかりして、何もしようとしない賢人でしょうか。それとも危険も知らず、謙遜というものを持ち合わせないために、なにものにも勇敢に向かっていく人々なのでしょうか。分かりきっているはずです。賢人は何もしないで古代の書の中に逃げ込んで屁理屈(へりくつ)をこねる方法を知っているだけです。一方、そうでない人間は現実や危険に接して本当の分別を身に付けます。そもそも、物事を知ることを妨げる二つの主な障害とは、心を暗くするような恥ずかしさや危険だと感じて行動をさせないようにすることではないでしょうか。ところが、痴愚女神はみごとにそれを追い払ってくれるのです。何事にも臆病になることなく、果敢(かかん)に挑戦する場合には、多くの利得が生ずる場合が多いものなのですね。
 また、思慮分別こそが物事を正確に評価することができるというなら、次のことをよく考えてください。思慮分別があり、物を見抜く力があると自任している人間がどれほど現実を正しく見ていると言えるでしょうか。なぜなら、すべてのものは二面性を持っているからです。美が醜をおおい、富裕は赤貧(せきひん)を知識は無知をおおい隠しているのです。頑健(がんけん)に見えるような者が実は脆弱(ぜいじゃく)で高い血筋らしいものが卑賤(ひせん)なのです。繁栄は不幸を友情は憎悪を隠しているのです。結局のところふたを開けてみたら看板とは逆のものにお目にかかるのがおちではないですか。

 誰でも、王様は金持ちで権勢があると思っています。しかし、その王様が精神上の長所を持っていなかったら貧しい人間と言えますし、そのうえその心を多数の悪徳にゆだねていたら一介の卑しい奴隷と同じです。
 たとえば、役者が舞台で演じている時、誰かがその役者のかぶっている面を引きはがして素顔をさらけ出したとしたら、その劇は台無しになってしまいます。女が男になり、若者が老人になり、王様が奴隷になり、神様がちっぽけなおじさんになってしまうのですからね。幻想(げんそう)が破り去られてしまうと芝居じたいがひっくり返されてしまいます。人生も同じです。各々が仮面をかぶって役割を演じているのです。
 たとえば今ここに賢人が舞い降りてきて、こいつは君主とあがめられているが、獣(けもの)同然の欲望にまみれた人間のクズだ。こんな奴にしたがっているなんて恥だとは思わないのかと。また、父の死を悲しんでいる青年に父はやっと真の生を送ることができるようになったのだから喜べ。なぜなら、彼は家系の良さを鼻にかけていた人間で、美徳も何ももたないげす野郎だったんだと言い始めたらいったいどのような結果になるでしょうか。誰もがこの賢人をふうてんとみなすでしょう。場違いなことを言う逆立ちした賢者ぶりほど無思慮なものはありません。目の前の物事に調子を合わせず、慣習に従わず、酒宴(しゅえん)の席で酒も飲まない、お芝居がお芝居であってはいけないというような人間はとんちんかんなものなのですね。それに対して皆さんは一般の人間ですから、一般の人間以上のことは知ろうとせず、大勢の人と一緒に間違える。これこそが本当の分別なのです。人生とはお芝居のようなものなのですよ。

 確かに、阿呆者は情念に導かれ、賢人は理性に導かれるのだと言われます。それゆえ、ストア派の学者は一切の情念を厄病(やくびょう)として、賢者から遠ざけたのです。しかし、情念の中には人を知恵に導く教師の役割を果たすものもあれば、人間を美徳や善に向かわせる刺激になるものもあるのではないですか。
 もっと端的(たんてき)に言えば、彼ら賢人は、人間らしい感情のない大理石のような人間を造ろうとしているのではないですか。そのような賢人は、観念の国なりに住んでもらえばそれでいいと思います。
 あらゆる自然な感情に心を閉ざし、愛情にも憐憫(れんびん)にも心動かされず、決して間違わない、自分だけに満足し、友達を必要とせず、他人を阿呆として嘲笑(ちょうしょう)を浴びせる。観念の国とは、そのような国家なのです。これが、彼らの言う完璧(かんぺき)な賢人なのですか。恐ろしくて、逃げ出したくなるような怪物ではないですか。
 そんな賢人を自分の指導者に友に伴侶に主人にしようとする人がいるでしょうか。愉快(ゆかい)で楽しく暮らせるような、優しく、人間のことを他人ごとなどとは思わない、そんな人間こそともにいるべき者なのではないですか。賢人などもうたくさんで、うんざりです。もっと愉快な話をしましょう。

 人間は恥ずかしい生まれ方をし、幼少期には教育を受けることに苦しみ、青年期には過酷(かこく)な労働を強いられ、老年期には病気に苦しめられ、一生を台無しにされたあげくに死ななければならないのです。それだけではありません。人間社会には、貧困・投獄(とうごく)・汚名・恥辱(ちじょく)・はかりごと・密告・侮辱(ぶじょく)などきりがないほどのいやなことがあります。

 なぜこのようになったのかは別問題として、このような中で生きていていやになって自殺した人とはどのような連中でしょうか。それこそ、英知をそなえた賢人といわれる人間たちではないでしょうか。もしこの世にいるのがすべて賢人だったら、人間なんて神がいくら造っても足りなくなるのではないですか。
 ところが私は無知と軽率さで人間にそのみじめさを忘れさせることができるのです。そして時折、快楽を与えて幸福をもたらせ、その人生を去りがたく思い、生にしがみつくようにさせるのです。
 歯が抜け、頭がはげ、猫背(ねこぜ)になり、汚くなっても、陽気に人生を味わおうとする人こそ私の得意とするところです。そこで、老人たちは若返りと称して、髪を染め、かつらをかぶり、義歯(ぎし)をはめ、ひん死の身でありながら小娘を好きになるのです。うぶな若造(わかぞう)そこのけの狂気ざたなのです。自分は冥土(めいど)に片足突っ込みながらも、若い娘をめとろうとします。まさに狂気ざたなのですが、ご本人はいたって得意げなのです。

 地獄から戻ってきたような屍(しかばね)同然の梅干しばあさんたちが、口を開けば「人生は楽しいわ」と言っています。これほどおもしろいことはありません。これらの婆さんは、金にものをいわせて若い男をたらしこみ、おしろいを塗りたくり、しなびた乳房を出して、酒を飲んだり、若い娘に混じって踊りをしたり、恋文を書いたりするのです。誰もがこのような婆様をバカ呼ばわりするのですが、彼女らは今の自分に満足していて、快楽、あらゆる喜びを味わっているのです。これこそ私、痴愚女神のおかげなのです。
 このように狂っているようにも見えるが楽しい生活を送るほうが、首をくくるための木の枝を捜すよりずっといいのではないですか。彼女らは他人から不真面目だと言われようと全くおかまいなしです。彼女らは自分が不真面目だとは思っていないのです。頭に石がぶつかるのは苦痛ですが、恥とか不名誉とか罵声(ばせい)を浴びせられるとかは、本人がそれを苦痛だと感じれば苦痛となりますが、感じなければ苦痛でもなんでもありません。みんながよってたかってやじっても、あなたが得意になっていれば何でもないことなのです。この痴愚女神だけがあなた方をそのようにさせることができるのです。

 しかし、このように言うと哲学者の先生方は、「痴愚女神に支配され、それにより過ち、無知に陥っていることこそが不幸だ」と言われるかもしれません。いや違いますよ。これこそが人間らしい人間なのです。人間この世に生まれて、みんなと同じように育ち、みんなと同じように生活して何が不幸だというのですか。あるがままの人間でいて不幸なことなど何もありません。鳥のように飛べないとか獣のように四足で歩けないとかメス牛のように角がないから情けないと思うなら別として、どこが不幸なのでしょう。馬が文法を知らず、お菓子を食べられないからといって不幸ですか。牛が体操ができないからといって不幸ですか。それと同じように痴愚だからといって人間は不幸ではありません。いや痴愚こそ人間の本性にぴったりとしているのです。

 ところが屁理屈(へりくつ)をこねる賢人は「学芸の知識が人間だけに与えられているのは、神が人間に対して与えなかったものを、人間自身がその力で手に入れるためである」と言います。他の動植物には十分尽くしてきた神が人間だけに対しては手を抜いたため、人間は学芸の力を借りて、手抜きの穴を埋めなければならなくなったということですね。しかし、学芸というものは実際はあまり幸福には役立ちませんね。
 文字が発明されたことで、ある王様がこれにより人間は記憶することを怠(おこた)るようになり、また書物により知識を体得することを怠るようになったと言いました。まさにそのとおりで、学芸というものが人間に災難(さいなん)をもたらしたのです。
 はるか昔の黄金時代と呼ばれていた頃には、人々は学芸など身に付けていませんでした。自分の本能だけに従って生活していればそれでよかったのです。今のように言語も多数存在していませんでしたから、文法は必要ありませんでした。反対意見があって論争することもなかったので論証法なども必要ありませんでした。訴訟もなかったので修辞学も必要ありませんでした。悪い風俗もなかったので法律学も必要ありませんでした。当時は信仰心も深かったので、自然の神秘に不貞(ふてい)な好奇心を寄せることもなく、天体の運行やその影響を測定したり、宇宙の神秘のからくりを探ろうとすることもありませんでした。一介(いっかい)の人間の身分以上のことを知ろうとすることは、罪になると考えていたのです。大空のかなたをながめるなどは、狂気のさたで誰の心にも浮かびませんでした。
 ところが、時代を経るにしたがって、この黄金時代の純粋(じゅんすい)さが失われ、悪霊たちが学芸というものを創造してしまったのです。初めはそれもわずかのものであり、それを修める人も少なかったのですが、後になるとギリシャ人たちなどが、いやというほどたくさん学芸を積み込んでいったのです。そのため、文法だけで一生を責めさいなまれるようなことさえも生じるようになったのです。

 そうはいえども、学芸にも喜ばれるものはあります。それは常識つまり痴愚女神に一番近いところにあるものです。もちろん、神学・物理学・占星学・論理学などではありません。医学がその一つです。ただ、これといえども、一番でたらめで間抜けで無知なものが最も身分の高い紳士の信用が厚いものなのです。また、法律家も喜ばれるものの一つです。一応、彼らは重大な事件もつまらない事件も取扱いますからね。そうはいえども、このつまらない者たちではありますが、彼らが活躍する範囲はどんどん増えていることは確かです。

 ところが神学者という者は、豆を食べながらシラミと食うか食われるかの戦いを続けているのが現実です。彼らに比べれば、まあ痴愚女神に近い学芸は、かろうじてまだましなのですがね。しかし、学芸とは全く関係を持たず、自然に従って生きている人々こそが一番幸福なのです。人工に汚されていないものこそが繁栄することができるのです。

 みなさんは、一番快適な生活をしているものとは、教育など受けずに自然だけに教え導かれているものだとは思いませんか。たとえばミツバチです。彼らほど幸福なものはないでしょう。ミツバチの感覚はわれわれと比べればはるかに限られていますが、その建築技術にわれわれは到達できるでしょうか。またあのような国家の仕組みを哲学者は実現できるでしょうか。
 それとは逆に人間と同じような感覚を持っている馬はなんと不幸なことでしょう。人間とともに暮らし、われわれと同じような悲惨(ひさん)をなめさせられているのです。競走馬においては追い抜かされないために精魂(せいこん)を使い果たし、戦闘では勝利するために勇敢(ゆうかん)に戦い、体を刺されたり、乗せている主人ともに土埃(つちぼこり)にまみれます。そして窮屈(きゅうくつ)なはみをかまされ、馬車を引きずらされ、馬小屋にとじこめられ、鞍(くら)をつけられ、鞭(むち)で撃たれます。もしそのことで人間に復讐(ふくしゅう)を試みれば大変な目にあわされるのです。

 それに比べれば、人間に待ち伏せされない限り、自然の本能のままに生きているハエや鳥のほうがどれだけ幸福かわかりません。しかし、その鳥もかごに入れられ人間の声を真似(まね)するよう教え込まれると、たちまちにその生来の美しさをなくしてしまいます。自然は人為に粉飾(ふんしょく)されたものよりはるかに勝(まさ)っているのです。人間というものは生物の中で最も悲惨な生き物です。その理由は、どの生物もその本性の分限(ぶんげん)に甘んじているのに、人間だけがその分限を越えようとしているからだとは思いませんか。

 また、人間たる者は学者や権力者ではなく、無知蒙昧(むちもうまい)な連中のほうが好ましいと考えます。なぜなら聡明(そうめい)で注意深い英雄は、自らの賢さのために自然の意見には全く耳をかそうとしないからです。
 あらゆる人間の中で知恵を目指すものほど幸福から遠く離れてしまうのです。彼らは至高(しこう)の神々に成り上がろうとして学芸を武器として自然に宣戦するのです。それに対して動物らしさと暗愚(あんぐ)さに近寄り人間の限界を超えようとしない人が幸福なのです。
 俗に阿呆だとかうすのろだと呼ばれている人々ほど幸福な人々はいないのです。こんなことを言ったら、ばかげていると思われるかもしれませんが、これが現実なのです。なぜなら、まず、第一に彼らは死を恐れません。また良心の呵責(かしゃく)に悩むこともありません。お化けの話を聞いても怖がることなどありません。亡霊(ぼうれい)や化け物に怖がることもありません。恐ろしい不幸に対する不安もありませんし、将来の幸福に対する度を超えた期待もありません。その人生において、憂慮(ゆうりょ)に苦しめられることはないのです。屈辱(くつじょく)も野心も羨望(せんぼう)も知りません。無自覚であるがゆえにそのような人々には罪というものが何もないのです。

 さて、賢人先生。あなたがいだく不安によってあなたの魂がどれだけさいなまれているか考えてみましょう。その生活の憂いがどれだけあるか目の前に積み上げてみれば分かることだと思います。そうすれば、私がこの阿呆どもからどれだけの苦しみを逃(のが)れさせているかわかると思います。この阿呆たちは、自分たちの時間を遊び、ふざけ、笑い、歌って過ごすばかりか、どこへ行ってもその楽しみ、遊び、おもしろさ、陽気をもたらしてくれます。彼らは物悲しい人間生活を陽気にする役目を果たしてくれてもいるのです。だから同胞から友人として認められ、ちやほやされ、ごちそうされ、大切にされ、助けられ、何を言おうと許されるのです。誰も彼らを傷つけようとはしません。野獣さえもこのような人間は自分に対して無害であるということが本能的に分かっていますから、危害を加えることなどありません。こういう人は、私の庇護(ひご)のもとにありますから、当然のこととしてあらゆる人々の尊敬を集めます。

 王様たちもこういう連中を高く買われており、彼ら無しには食卓にもつく気にならず、かた時とも彼ら無しにはすまされない状況にあります。王様たちは、みえをはるために養っている賢人よりも、これらの道化師(どうけし)のほうを大事にされます。なぜなら賢人たちは、王様の繊細(せんさい)な耳を辛辣(しんらつ)な真理で傷つけ悲哀(ひあい)を味あわせるだけだからです。
 しかし、道化師どもは、王がいかなる代償(だいしょう)を払ってでも手に入れたいと考えている娯楽・微笑み・歓楽を与えてくれるのです。さらに、彼らは誠実で率直です。阿呆には嘘いつわりはなく、真実しか述べることができません。思っていることはすべて表情にあらわれます。ところが賢人は2枚舌を持ち、状況に応じてそれを使い分けます。彼らは、黒を白ということもできますし、心の中と一致しないことを言うこともできます。
 王様は真実を聞く術(すべ)を持たず、追従者(ついしょうしゃ)の言うことだけを聞かされ、真実から遠ざけられているといわれますが、私も実に気の毒なことだと思います。しかし、次のような反論もあるでしょう。王公の耳は真実を恐れていて、王が賢人たちを避けるのは、彼らから聞かされるのは快いというよりも率直なことで、それが恐いからだと。私もそれを認めないわけではありません。しかし、真実は、賢人たちは王様から愛されていないがゆえに遠ざけられているのです。王様に真実を述べ、王様をののしりながらも彼を楽しませることができるのが今まで述べてきた阿呆たちなのです。同じことを言っても、賢人が述べたことなら死罪を免(まぬが)れえないことでも、阿呆が口にすれば王様は喜んでくれます。だから、真実に何ら人を傷つけることがない限りは、神々は阿呆にだけ真実をお任せになっているのです。
 またこれらの人々はご婦人方にも気に入られています。婦人がたは軽はずみでうわついていますから、まあ、何をしても冗談ぐらいにとってくれるのですが、彼女たちにしても、自分の失敗も隠すがうまいものでもありますがね。
 阿呆どもは一生を快適に過ごし、死を恐れる感情を持つこともなく天上界にいきます。そして、そこでも人々を道化で楽しませます。

 ここで阿呆の運命と賢人の運命を比較してみましょう。賢人と呼ばれる人々の運命とはどんなものでしょう。青春期は、学問の研究で時間を使い果たし、その最も麗(うるわ)しい時代も徹夜や憂(うれ)いや悩みで台無しにし、残りの生活もほとんど楽しみすら知らず過ごすのです。こんな人間は、けち臭く陰気で、めそめそしていて、自分に対して厳格であるがゆえに他人にとっても我慢ならない人物である。青白い顔をして、痩(や)せこけ、目やにだらけで禿(は)げ頭で早死にするのです。まあこんな人間はもともと生きているとは言えないので、いつ死んでもどうということはないですが。これが賢人先生の姿なのです。

 こんなことを言えば、ストア派の学者どもが、阿呆こそ狂気であり、狂気こそ最高の不幸だと言われるかも知れません。しかし、狂気にも二種類のものがあるのです。  一つは、戦乱への熱狂、黄金への渇望(かつぼう)、不真面目(ふまじめ)な痴情(ちじょう)、親殺し、近親相姦(きんしんそうかん)などですが、もう一つの種類のものは、私、痴愚女神から出てくるもので、この世に願わしいものです。この狂気は快い幻想でもって魂を憂いから自由してくれるのです。さまざまな形の快楽を味あわせてくれてあらゆる不幸を忘れさせてくれるものです。

 普段の生活では情にあつく、妻には優しく、召使いには心ひろいある人間がいました。彼は、何も演じられていない舞台を見ては、世にも見事なお芝居がなされているという気分になって笑い、喝采(かっさい)し、喜んでいたのです。この狂気から覚まされたとき、その男は、自分は殺されたも同然だ。楽しさや、歓喜は自分から逃げ去ってしまったと嘆いたといいます。
 こういう狂気を病人扱いして薬攻めで治した人こそ、薬のお世話にならなければならないのではないかと思います。もちろん、感覚や精神の錯乱から判断力もとんちんかんになり、それが度を越え、いつまでも続くならそれは私の言う望むべき狂気ではありませんが、駄馬(だば)が鳴くのを聞いて合奏曲(がっそうきょく)だと感じ、賤(いや)しく貧しい身分に生まれながら王に生まれたぐらい思っている人などが私がお世話した狂気なのです。このような狂気は、当人にとっても周りの人間にとっても楽しい事ですよね。また、身の回りに思っている以上に多く存在しているものなのですよ。狂人同士がお互いに笑いこけているのですよ。

 私に言わせれば、狂人になればなるほど人間とは幸せなものなのですよ。ただ、それは私の領分に関わるものに限られますがね。ただし、その領分とは恐ろしく広いものなのです。人間であらゆる時期を通じて、私の狂気と全く関わりを持たない人などまずいないでしょう。かぼちゃを女だと錯覚する人はほとんどいませんから、もしそのような人がいたら一般の人からは狂人扱いされます。しかし、私の領分内のことで、例えば、自分の細君がたくさんの情夫(じょうふ)を持っているのに、自分の妻こそ世界で最高に貞潔(ていけつ)な女だと思っている人などは多くいて、一般の人が彼らを決して狂人とは言いませんよね。

 また、角笛の音や猟犬の吠える声を聞いて幸福を感じ、犬の糞(ふん)の香りを香水のように感ずる狩猟気違いもいます。日頃口にする牛や豚のトサツに関わる人間は賤民(せんみん)扱いをするくせに、彼らは獣をズタズタにするのにうっとりとし専用の刃物を持ち、獣を追い立て、それを食べるのです。そのうち野獣と同じようになるのに自分は王者にでもなったような気持ちになる人もいます。

 石材建築に夢中になって、今日は丸い建物を四角に変えたかと思うと、翌日にはその四角くした建物を丸くする人々も同類です。建てたり壊したりと、とめどがありませんから、ついには破産(はさん)して住むところにも食うものにも困ることになります。しかし、本人は全くおかまいなく幸福です。

 また、元素の性質を変えようと試みたり、新しい元素を発見しようと躍起(やっき)になっている人々も同じです。この連中は絶えず希望を心に抱き、いかなる努力も費用も惜しみません。いつも何かすばらしいことを想像しています。そして、それらに惑わされてはいるのですが、全財産をそれらに注ぎ込み、最後には何一つ新たなものをつくるお金もなくなってしまいます。しかし、このような状況になっても、その夢を捨てるどころか、他人にも同じような幸福を味あわせようとするのです。夢を実現させるためには自分の寿命は短すぎたとなぐさめるのです。

 賭(か)け事が好きな人も見ていて笑い出したくなります。こてんぱんに負けてもなおも今度こそ人をペテンにかけてやろうとします。痛風(つうふう)になって、関節がひん曲がってもサイコロを振り続けるのです。怒りで終わらなければ賭け事も、これもまた私の領分でしょう。

 また嘘でかためたような奇跡の物語を話したり聞いたりするのが好きな人々もいます。このような人々も私の領分です。こういう人々は亡霊だとか、死霊だとか地獄の悪霊だとかとほうもない作り話を持ち出しますが、このような話は、いくら聞いても聞きあきることがありません。話が本当らしくなければないほど人は信じ込み、いい気持ちになるのです。このような話は人の心に安らぎを与えてくれるだけではありません。司祭や説教士たちの得にもなるのです。

 ある彫像や画像を拝んでおけばその日に死は訪れないと確信している人々や呪文(じゅもん)を唱えれば戦死することはないとか、祈祷(きとう)をすれば金持ちになれるとか信じ込んでいる人もいます。彼らも私の仲間なのです。

 犯した罪から地獄にとどまる時が少しでも短くなるお許しの札を得たと喜ぶ連中はどうでしょうか。ペテン師が作った祈りですべてが手に入れられると思いこんでいる人々はどうでしょうか。まあ、こういう連中は、この世の楽しみがなくなってから始めて天国の福楽に向かって神頼みを始めるのですがね。

 悪党連中もほんのわずかの供物(くもつ)で、一切の罪が拭(ぬぐ)い去られ、また悪党の続きができると思い込んでいるのです。

 毎日、詩を7編唱えれば幸福になれると信じている、バカないや幸福な人間がいるのです。さすがここまで例をあげていると私も恥ずかしくなってきますが、何もこのようなことは、一般の人々だけのことではなく、教会の先生方もそうなのです。

 どの国も望みをかなえてくれる自国の聖人というものをいろいろと持っています。ある聖人は歯の痛みを治すとか、違う聖人はお産の苦痛を和らげるとか、はたまた家畜の群れを保護するという聖人もいます。中には、複数の力を持っている聖人もいるのです。特に聖母マリアには、キリスト以上の力があるとされています。

 ところで、これらの聖人から授けられたいと人々が考えていることで私、痴愚神に関わらないものがあるでしょうか。神社に壁から天上までつりさげられた絵馬を見たらわかるでしょう。少しでも真剣に努力して、その結果、賢くなれますようにと願っているようなものがありますでしょうか。どれもこれも、そのような真面目(まじめ)なものではありません。格闘のすえに助かったことを感謝するとか、戦闘で自分だけが逃げ出したのに、勇気があったから助かったのだとして感謝するとか、盗賊だったのに罪を許され感謝するだとか、不貞の妻から毒を2種類も飲まされたことから偶然両方が体外に出て助かったとか、私に関わるものばかりです。馬車が転覆(てんぷく)したにもかかわらず無事、馬を家まで連れ帰った男、崩壊した家の下から無事助け出された人、情夫の亭主に押さえられながらも逃げおおせた男もおります。これらの連中は、痴愚神から逃れたといって喜ぶような人間では決してありません。阿呆になることは実に楽しいことなのです。人々はいろいろなものから解放されたいと願いますが、この痴愚神だけは別ですよ。

 ところで、キリスト教徒の平生の生活も、実はこのように奇妙なことでいっぱいなのです。また司祭たちもこのことを当然とし、このようなものがなくならないように努めているのです。なぜならこれらが彼らに多くの利益をもたらすことを知っているからです。もし、このような連中の前で賢人が、「正しく生きなさい。罪を償うならお金ではなく、涙、祈祷(きとう)、断食をしなさい。そして自分の行いを改めなさい。」というようなことを繰り返し述べたとしたら皆の魂をせっかくの幸福感からむしりとって、混乱に陥れることになってしまいます。

 先に進みたいのではありますが、どこからどのように見てもてもみじめな日雇い労働者と何ら変わらないのに、自尊心だけは強くて、何の役にも立たない身分が高いことだけを鼻にかけていい気になっている貴族のことを言わないわけにはいきませんね。
 彼らは、何かにつけ自分の祖先はある有名な場所に住んでいた偉い人間であったとか、祖父母は名のよく知れた者だと言って古臭い家名を並べ立てます。また部屋のあちこちに、先祖の肖像画や彫刻を飾っています。しかし本人といえば、この世で何の役割も果たしていない石の像のような人間です。並べ立てられた絵画も塗られた絵具にすぎず、それ以上の値打ちなどありません。
 しかし、これらの人々もその自惚(うぬぼ)れ心のおかげで幸福に暮らしています。またこんな奴らを神々のように思う同じようなアホな人間がたくさんいます。しかし、そんな彼らにもあらゆるところでこの自惚れ心が幸福をまき散らしてくれているから幸せなのです。

 外見はとても美しいとは言えない男なのに自分は世にもまれな美男子だと思っている男、コンパスで三本の線を引くことができるというだけで自分は大数学者だという人もいますし、ガラガラ声で音痴(おんち)な歌しか歌えないのに美声の歌い手だと信じている人などもそうです。

 自惚れに匹敵するもう一つのアホがあります。それは、実は自分ではなく召使にさせていることなのに、それを鼻にかけてさもそれは自分のおかげだといいたげな連中です。なにか、しゃれた話をしなければならない時には、召使をそばに置いて耳打ちさせたり、自分は弱くすぐ負けてしまうのに相撲大会があればしゃしゃり出る人も、体格のよい召使をあてにしての話であったりすることなどがそうです。

 技芸(ぎげい)を持っていると言われる人々についてもこれらと大差はありません。大したこともない才能なのに、それを人に教えるくらいなら田畑を手放したほうがまだましだという人もいます。俳優・歌手・雄弁家・詩人などと呼ばれている人々に多くいますが、まあ、一般的に値打ちのない才能しか持たない人間に限って自惚れが強く横柄(おうへい)なのです。またそういう人間に限って世間では賛美されるのも世の常ですがね。まあ、多くの人が痴愚女神の奴隷だから、最も悪い奴が人気を博するのもやむをえませんがね。一番下手なやつが一番称賛(しょうさん)されるので、本当の知識を得ていったい何になるのかと考えたくもなりますよね。まあ、本当の知識を身に付けるのは困難ですし、また手に入れたところでそれはそれで退屈(たいくつ)で臆病(おくびょう)な人間を作りあげるだけですし、ほんのわずかの人間にしか認められないものなのですよ。

 自然は、この自惚れをどこの国やどの都市の人間にも持たせて生まれさせてくれました。その結果、イングランド人は風采(ふうさい)のよさとか、音楽上の才能とか、おいしい食事を出す才能があると申しますし、スコットランド人は血筋が高貴だとか、王室と姻戚(いんせき)関係があるとか議論上手とかを自慢します。フランス人は優雅(ゆうが)であるとかパリは神学の都市であるとか言いますし、イタリア人は文学と雄弁は自分たちのものだと言い、野蛮でない唯一の国民だと鼻にかけます。このように、いい気分になるのにはローマ人は抜群(ばつぐん)で、今でも古代ローマの夢を見て恍惚(こうこつ)としています。ヴェネツィアの人々にとって幸福とは、高い血筋の出であることを大切にしている点にあります。ギリシァ人は古代の英雄の称号が自分たちにもあるものとしています。トルコ人は、自分たちこそ最上の宗教を持つと自負し、キリスト教徒を笑いものにして、迷信の徒扱いをしています。ユダヤ人は今もメシアの到来を待ち望んで、モーセを祭りあげています。スペイン人は武勇の誉(ほま)れでは誰にもひけをとりません。ゲルマニア人は背が高いことと、魔術が使えることを得意にしています。これらのことからも、自惚れがどれほど多くの人々に喜びをあたえているかお分かりになることでしょう。

 またこの自惚れ心には追従(ついしょう)という妹がいて、これがまた、この自惚れ心にひじょうによく似ているのです。自惚れ心は自分を撫(な)でさすり、追従は他人を撫でさするだけの違いですからね。追従とは、犬が人間にじゃれ付きリスがまとわりつくのと同じことです。このようにしてそれらは人間の友となるのです。虎やライオンが人間に対してそんなことをしてくれますか。
 追従にもいまわしいものはありますが、私の管轄するこの追従は好意と無邪気(むじゃき)から生まれるもので、美徳に近いものです。これは、沈んだ心を元気にさてくれますし、悲しみを和らげ、怠け者に刺激を与え、病人の苦しみを和らげ、怒りの心をしずめ、恋する人々を近づけ、人の心をほころばせ、きつい言葉も柔らかい言葉にしてくれます。要するにどの人間もお互いに楽しく大切なものと思われるようにしてくれるのです。これこそが、幸福のために必要なものであり、お互いがお互いを撫であうようなものです。追従とは、雄弁の一部になっていますし、医術の大きな部分を占めていますし、詩歌では最高の部分たなっているのです。人間のあらゆる関係に添えられる蜜であり香料なのです。

 しかし、だまされるのは不幸なことだと人は言うでしょう。いえ、違います。だまされないほうがはるかに不幸なのです。幸福は物事そのものの中にあるのではなく、人間がそのものに対して抱く思いしだいなのです。人間の世界に関わることはあいまいなもので、真実を明瞭(めいりょう)に把握(はあく)できると考えるのは傲慢(ごうまん)ではないでしょうか。もし誰かが真実を把握したとしても、その時その人は人生の大半の喜びを犠牲(きせい)にしたうえでのことだと思います。人の心は、真実ではなく嘘に引き付けられるようにできあがっているのです。教会のお説教を聞きに行けばすぐわかることです。まじめなことが話されている時は、人はあくびをし、居眠りをしますが、おとぎ話に近いものが話される時は、人は聞き惚れるものです。人はペテロやパウロでなく、寓話(ぐうわ)に近い聖人離れした人の話になると聞き耳をたてるものなのです。

 幸福などというものは、誰でもわけなく手に入れることができるものですよ。文法を身に付けるのは並大抵の苦労ではありませんが、寓話などは誰でもすぐ作れるものです。寓話は知識以上に人々を幸福にします。ある人間は、他人には臭くて我慢(がまん)できないような塩漬魚を食べます。本人がそれをおいしいものだと思っている以上それが楽しいことなのです。たとえ豪華(ごうか)な食事でもその人が、その食べ物に胸がムカムカすると思えばおいしくありません。どんな質素なものでもおいしく食べられればそれがいいのです。醜(みにく)い女でもそれが絶世の美女だと亭主が感じているならそれでよいし、どんな高い絵でも見て楽しくなければただの模様ですが、でたらめに色を塗りたくったような絵でもすばらしい絵だと感じているならそれが幸福をもたらしてくれるのです。いくら大金を払って有名画家の絵を手に入れても、それが素晴らしいものだと感じることができなければ決して幸福ではありません。
 ある亭主が細君(さいくん)に偽の宝石をさも高く貴重な宝石と信じ込ませて送りました。細君は大喜びでそれを大事にしまい、亭主は出費をまぬがれたわけです。両者に何か不都合でもありますでしょうか。

 プラトンは洞窟(どうくつ)の比喩(ひゆ)の話をしましたが、洞窟の壁に映ったものを見て満足している人と、洞窟を出てあるがままのものを見ている賢人とに何か違いがありますか。黄金色の夢を永久に見て金持ちになったつもりでいる人は幸福ではないですか。思い込みさえあれば人間はいくらでも、多くの人とともにわけなく簡単に幸福になれるのです。

 ところで、どんな幸福でも他人と分かち合わねばおもしろくないものですね。賢人には、分かち合える友がほとんどいません。また、バッコスの神がもたらす酒による酔いは憂いを追い払ってくれますが、酔いがさめると同時にすぐ憂いは舞い戻ってきます。しかし、この私がもたらす幸福は、これに比べればはるかに完全で徹底したものです。まさに人間の魂を陶酔(とうすい)の中に漬(つ)け込んでしまうのですからね。交換条件など、何一つつけずに私はそれをあなたがたにさしあげるのです。そのうえ、ほかの神々と違い、私は誰一人としてのけものにせずあらゆる人にこの喜びを与えるのです。ほかの神々は、ひいきした一部の人間に対してだけしかそれを与えようとはしません。美も雄弁も富も手に入れることのできる人間はほんの一部に限られます。すべての人に幸福を与えることができるのはこの痴愚神だけなのです。

 私は、人々に誓いを立ててもらいたいとは思いません。お祈りの最中に手抜かりがあっても怒りなどしませんし、償いのためのお供え物をしてくれとも言いません。私をほったらかしにしてほかの神を祈っても罰など与えませんし、犠牲(ぎせい)の臭(にお)いをかがせなくても天変地異(てんぺんちい)は起こしません。このようなことになるとほかの神は実に気難(きむずかしい)しいのです。そんなものはほっておいて相手にしないのが一番いいのです。気難しい人間は相手にしないのが一番いいというのと同じです。
 そんなことを言ったって誰もお前に供物を与えるものはいないし、お前のためにお寺を建てるものもいないとおっしゃいます。まさにそのとおりです。まあ、このような恩知らずの人々には驚かされますが、私はいたって寛大(かんだい)ですし、一向に気にしていませんし、かまいません。第一、供物などというものは一体何の役に立つでしょう。人々の中に私が宿り、その生活が私の姿どおりになっているのを見るにつけ、人々は私に敬虔に仕えているのだと思っています。

 私が受けているような崇拝は、キリスト教徒の間ではあまり見られませんね。聖母マリアに昼間から役に立たないような小さな蝋燭(ろうそく)をかかげている連中はわんさといます。ところが彼女の貞潔(ていけつ)・愛情などをまねようと努めている人は何と少ないことでしょうか。そうすることこそが、天にいる者にとっては快い崇拝なのですがね。私は、神社や彫刻の像を欲しがりません。この宇宙全体が私のものですからね。あらゆるところに私の信者はいるのです。私は、自分の彫像や画像を要求するような阿呆ではありません。むしろ人間の数だけ、この世の中に私の彫像があるようなものです。馬鹿者(ばかもの)や無教養なものが、神のかわりにそのようなものをあがめるのです。だから私は、他の神が決められた日にあがめられるといってうらやましいとも全然思いません。

 私の言っていることが間違っていて、思い上がりだと言われるなら、一緒に人間どもの生活を調べてみましょう。人間がどれほど私に借金があり、私に敬意を払っているかがはっきりしてくるでしょう。
 天上界から人間界を眺めれば、実にいろいろな人間がいるのが分かります。好かれてもいないのに、つまらない女に熱をあげる男、妻をめとるのではなく持参金をめとるのが目的の男もおりますね。自分の女房に売春をさせる男がいるかと思うと、絶えず嫉妬(しっと)の目を光らせ女房を監視している男もいます。葬式で泣いてくれる人を雇う人間がいるかと思えば、義理の母親の墓の前で泣いている男もいます。破産するまで食べ続ける人間もいれば、眠っていて何もしないことが幸福だと思っている男、隣人のことでは騒ぎまくっているのに、自分のことについてはほったらかしの男もいます。借金でどうにか暮らしているのに、自分は金持ちだと思っている人間、自分はスカンピンなのに、跡取りを金持ちにするために必死な人間、また一攫千金(いっかくせんきん)を夢見て、金では買えない自分の命を失いかねない危険にさらしている人間もいます。また、のんびり休んでいるよりも戦争へ出て一山当てようとする男、金持ちの老婦人におべっかを使って金持ちになろうとする男、などあげればきりがありません。まあペテン師が逆にペテンにかけられたのを見ると大笑いしてしまいますがね。

 特にゲスな輩(やから)は商人です。彼らは卑(いや)しい仕事をきわめて不誠実な方法で行っています。平気で嘘をつき、物をくすね、ちょろまかし、他人を欺(あざむ)きます。しかし、それでもその指にはまっている金の指輪のおかげで、人々の尊敬を受けられるぐらいに思っています。またごますり人間が、人前で彼らを「殿様」などと呼びますが、彼らはただそのお金を分けてもらいたいがためなだけですがね。
 さらに、財産の共有を確信して、他人が監理していないなら、何でも自分のものにしてしまう人さえいます。金持ちになりたいと思っているだけで、金持ちのつもりになっている人もいますが、楽しい夢を見ているので幸福ですね。ある人は外では幸福に見えればいいと思って家の中では飢え死に寸前の生活をしている人もいます。持っているものを大急ぎで使い果たそうとする人間がいるかと思えば、しこたま貯める一方の人間もいます。世間的な名誉を得たいと骨身を削る人がいるかと思うと自分の家の炉辺(ろばた)にへばりついているだけの人もいます。果てしもない訴訟(そしょう)事件を起こす人がいますが、裁判官や弁護士の腹を肥やしてやっているだけのことなのです。
 何か目新しい計画に血まなこになる人もいれば、壮大(そうだい)なことばかりに夢中になる連中もいます。やれエルサレムやローマや聖地の巡礼に必要もないのに行くことが自分の務めだとして、女房子どもはほったらがしの人もいます。

 もしあなたがたが月から地球を見たら、ハエや羽虫どもがぶつかり、争い、罠(わな)をかけ、ちょろまかしあい、飛んだり、跳ねたりしながら生きたと思えばすぐ死んでしまうような有様(ありさま)が見えてくるでしょう。戦争でも起ころうものなら、また疫病(えきびょう)でも蔓延(まんえん)しようものなら何千人もの人々が一瞬に消えうせるようなことだってあるのですからね。

 けれども、このように人間どものバカさかげんばかりを話していたら、この私自身が一番の気違いということになりますね。そこで今度は、いかにも賢そうな人間、黄金の杖つまり知恵を求めている連中の話をいたしましょう。その人間どもの最初にあげられるのが文法学者と呼ばれる連中です。もし私が彼らに関わっていなかったら、彼らこそ、世の中で一番悲惨で神々に憎まれる人々になったでしょうね。彼らは、昔からいくつもの呪(のろ)いや不幸にのしかかられていると言われています。彼らは学寮(がくりょう)と呼ばれるところで来る日も来る日もがつがつ腹を減らして、垢(あか)まみれになって、わめきちらし、つんぼになって、悪臭と不潔を振りまいているだけなのです。そこは、まるで囚人(しゅうじん)が乗せられている舟のようなありさまです。そしてそこで彼らは、過労のあげく老いぼれていくのです。

 しかし、私はこういう人間にも幸せを与えてやっているのです。それは自分こそ一流の人物だと思っていられるような幻影(げんえい)なのです。まず、こういう人間は、生徒をいかめしい目つきや大声で震(ふる)え上がらせる時や木べらや鞭(むち)で打ちすえる時や我を忘れてあらゆる激怒(げきど)に身をゆだねる時などは、なんとまあ得意になっていることでしょう。一方自分たちの不潔さにもかかわらず、自分たちは優雅であると思い込み、自分たちの臭いも花のように良い香りだと思いこんでいます。そのみじめな奴隷のような身分も国王と変わらないと思い込んでいるのです。

 しかし、彼らの一番の幸福は、自分たちの知識を絶えず誇っているところにあります。子どもたちの頭にばかげたことを詰め込み、自分は偉いつもりでいます。また生徒の母親や父親にまで、自分はかくなるすばらしい人間だと信じこませるのです。こういう学者先生どもは、腐れ果てた羊皮紙の上に書き残された名前とか苔(こけ)むした石のかけらから碑文(ひぶん)の断片を見つけ出しては大喜びします。まるでアフリカでも征服し、バビロンを占領でもしたような様子(ようす)です。何の血の気も通っていない、世にもばからしいヘボ詩を自分で持ちまわって感嘆してくれる人間を捜しまわっています。仲間同士で、お互いほめあうのも彼らの喜びです。しかし、誰かが誤って批判めいたことでも言おうものなら、あらゆる敵意、罵詈雑言(ばりぞうごん)をむき出しにします。

 私は、万学にひいでた60才くらいの文法学者を一人知っています。彼は20年間一切の楽しみを放棄して文法学に専念してきました。彼にとって、他の人にとってはどちらでもいいような八つの品詞を定義できたら、それだけで何事にも代えられない幸福を得たと思うでしょう。なんといっても誰も完全に成し遂げられなかったことですからね。一方では、もし副詞の領分から接続詞を一つでも取り除こうものなら、彼は戦争でも起こしかねない人間なのです。
 文法学者の数だけ文法が、いやそれ以上の文法があると言われています。一人ひとりの文法学者が5種類以上の文法書を発行しているとも言われます。この大先生方は、自分の目的完遂のためには、他人のどの文法書もいいかげんにほっておくことなどしません。ページをめくり絶えずいじくり回しています。それというのもこの文法学者達は、自分の業績を守るために、絶えず他人の説に目を光らせます。自分の業績が横取りされて、昔年(せきねん)の苦労が水の泡になることなどないか心配しているからです。彼らを狂乱と呼ぶのは自由です。ただ、この不幸この上ない人間も、自分自身をこの世にいないほどの偉大で幸せな人間だと信じ込んでいます。王の身分と取り換えようかと言っても、まっぴらごめんだと答えるでしょう。ただ、このような幸福感をこれらの人間に与えているのも実は私なのです。

 詩人も私が管轄(かんかつ)する人々です。彼らは根も葉もないこと、笑止千万(しょうしせんばん)なそらごとで絶えず人を魅了(みりょう)しようと躍起(やっき)になっています。驚くことに彼らは、こんなつまらぬものだけで、不死を得られ、またそれを他人にも分け与えられると思っているのです。彼らは、最も「自惚れ」と「追従」の従順な家来(けらい)となっている人間たちで、最も私をあがめるべき人々であると思っています。
 また、雄弁家はときおり私に不実(ふじつ)をはたらき、哲学者と気脈(きみゃく)を通じることがありますが、基本的には彼らも私の配下にいます。彼らは大真面目(おおまじめ)に冗談(じょうだん)を語る術(すべ)をもっているのです。どんな議論でも、解決できないことを滑稽(こっけい)な言葉で笑いとばすことができるのです。そして人々を抱腹絶倒(ほうふくぜっとう)させるのです。まさに私の配下にあるからこそできることなのです。

 さらに、書物を刊行(かんこう)して、不朽(ふきゅう)の名声を得ようとしている文筆家も私が担当する人々です。誰もが私の恩恵を受けているのですが、紙の上に全くのバカ話を書きなぐる連中は特にそうです。自分の文章の批評を少数の評論者の評価にゆだねているような人は幸福などではなくひじょうに惨(みじ)めですね。彼らは自分の文章にやれ何かを付け加えたり、削ったり、ひねくり回したりして、9年間も手元においても決して満足などできないのです。そして、わずかな連中しかあずかれない栄光(えいこう)を手にするために睡眠その他多くの犠牲や労苦を払うのです。さらに、健康・肉体の美しさを損傷(そんしょう)したり、目の病気にもかかり貧困にも陥(おちい)り、すべての快楽を断ち、老いも早くやってきて早死にしたり、その他たくさんの惨(みじ)めなことに見舞われます。それでも、どんな犠牲をはらっても、評論家の単なるよぼよぼ爺(じい)さんに認めてもらえればそれらの犠牲は決して高いものではないと思っているのです。

 私の手下の文筆家は頭に浮かぶデタラメを書いているだけですが、それがデタラメであればあるほど、無知蒙昧(むちもうまい)な連中の拍手喝采(はくしゅかっさい)を浴びることをよく知っています。二、三人の賢人がたまたまそれを読んで軽蔑(けいべつ)しようとそれが何なのでしょう。多数の賛同者の前では何の重みもありません。
 けれども、もっと頭のいい奴は盗作(とうさく)をします。他人のものを自分の作品だとして発表します。やがてばれるかもしれませんが、それまでは当面いい思いができます。皆からほめられ有名人とたたえられて、いい気もちになれるのです。過去の著作の多くも盗作まがいのものがたくさんあるのではないですか。そしてお互いがお互いをほめたたえます。また、あえて敵を作って相反する2つの派を作らせ競わせる場合もあります。そのようにして名声を高めるのです。人々も両者の支持者に別れ、どちらも勝利者となるのです。彼らも私のおかげで楽しく暮らしているのです。

 また、学者連中で最前列を要求するのは、法律学者です。なにしろこれくらい自分を気に入っている連中はいませんからね。何の関係もないものの上に法律の文面を積み重ねるのです。注釈(ちゅうしゃく)のうえに注釈を重ね、学説の上に学説を積み上げ、自分たちの学問は最も困難なものだという顔をしています。事実、苦労したものは、何でも値打ちがあると思っているのですからね。
 また、論理学者や詭弁(きべん)学者も同じ仲間です。彼らはやかましく、おしゃべりでは、集まった20人の婦人にもまさります。また喧嘩(けんか)好きで些細(ささい)なことで剣を抜き、議論を吹っかけ、真実そっちのけで言い合います。それも三段論法で武装してかかります。相手が誰であろうと関係ありません。ただし、それでも自惚れ心はひじょうに強くて本人はしごく幸福なのです。

 哲学者はどうでしょう。威風堂々(いふうどうどう)としたいでたちで、ひげを生やし外套(がいとう)を着こんで、他の人間をかげろうぐらいに思い、自分達だけが唯一の賢者であると自称しております。太陽や月や星についてその運行や大きさを語るとき、また雷や自然の不思議な現象を語るとき、あたかも自分こそ宇宙の創造者からその神秘を授かったものででもあるかのように、神の使者でもあるかのように、その摂理(せつり)をとうとうと述べます。その時の彼らの表情は恍惚(こうこつ)とした感激に打たれているかのようです。

 ただし「自然」は、この哲学者連中の憶測(おくそく)を聞いて、大笑いします。なぜなら、彼らの言うことに根拠など何一つないからです。何一つ分かっていないのに、すべてを知っているがごとく話します。そのくせ、自分自身については無知ですし、目が疲れているせいか放心しているからか、通り道にある石や溝(みぞ)にも気づきませんね。それなのに普遍的概念(ふへんてきがいねん)・独立的形相(けいそう)・本質性・固体本性などが自分には見えるとぬかします。
 三角形・方形・円形・その他幾何学(きかがく)的図形を迷路のように組み合わせ、さらにまた文字をあれこれと並べ替えたりして無知な人々に目つぶしを投げかけます。そんな時、彼らは無知な一般の人々をどれだけ軽蔑して見ていることでしょう。そのうえ、ある連中は、星によって未来も占いますし、魔法そこのけの奇跡まで起こせると豪語(ごうご)します。また、幸福なことにそれを信じてくれる人がいるのです。

 神学者の方々については口をつぐむべきで、あえて沼をかき回したり、毒草のようなものには触れない方が良いのかも知れません。彼らは、驚くほど尊大で怒りっぽい人々だから、私が何か言葉を発すれば、何百何千もの罪状をあげて私をとがめるでしょう。そして私がその発した言葉を取り消さないとしたら、たちどころに異端宣告(いたんせんこく)を下すことでしょう。それもそのはず、それこそがお気に召(め)さぬ人間をたちどころに震え上がらせる彼らの術(すべ)だからです。
 私は、彼らに浴びせかけるほどの恩を与えているのに、この連中ぐらいその恩に感謝しない人間たちはいません。自惚れ心を授けてやっているので、天上界に鎮座(ちんざ)できているのです。そしてその高みから地上をはい回る獣や人間の群れを憐れみをいだいてながめることができるのです。私は連中の周囲に、厳粛な定義や結論や必然的帰結や明白な命題や明白ならざる命題を護衛(ごえい)につけて守ってやっています。当人たちも自分で抜け道を用意し、自由自在に識別・区分をし、あらゆる難問を断ち切りあるいはすり抜ける術を用意しています。
 神学者の文章には、新たに造った言葉や異常とも思える用語がいっぱい詰まっています。さらにいろいろな種類のうんちくを彼らなりの一流の方法で説明してくれます。たとえば、この世界がどのように創造され配置されたか、いかなる過程でアダムとイブの原罪が子孫にまで広がっていったのか。また、どのくらいの時間をかけてキリストが聖母の胎内で完全な形になったのかなど数え上げればきりがありません。
 もっとも、こうした問題は実はもう論じ尽くされていますから、自らを大神学者と称する人々は、さらなる興奮感激(こうふんかんげき)にさせられるもっと別な問題にいどんでいます。つまり、神の創造の正確な瞬間があったか。キリストにはいくつもの血統があったかどうか。「父なる神は、その子を憎みたもう」という命題は主張できるかなどです。
 さらに、この連中の面倒(めんどう)な阿呆さかげんは限りがありません。なぜなら、観念、形式、本質など実際には存在しないものも見分けねばなりません。また、思いもかけぬ命題を述べます。その述べるところは、逆説派のストア派の人間さえかなわないものです。たとえば「千人の人間を殺すことは、安息日に労働するよりまだ罪は軽い」とか「どんな軽く小さな嘘をつくよりも、全宇宙の中のすべての生物が消滅するほうがまだましだ」などと言います。
 この面倒な彼らの道具だては、スコラ派の学者などのおかげでもっと面倒くさいものになっています。腸のようにクネクネとした学説をさらにひねくり回していますから実に複雑怪奇(ふくざつかいき)なものとなっているのです。

 パウロなど使徒とよばれた人々は、愛の業を立派にやり遂げてきたのであり、今の神学者のように定義などというものを振り回すことはありませんでした。使徒たちはマリアを知っていても、なぜアダムのケガレからまぬがれているのかは知りませんでしたし、そのことを証明する方法も知りませんでした。ぺテロは天国へのカギを託されましたが、しかし彼がどれだけ神学的なことを修めていたでしょうか。彼らは、多くの人々に洗礼を施しましたが、洗礼の形相因・目的因などの後世の学術的なものは何一つ知らなかったはずです。確かに彼らは神を崇(あが)めてはいましたが、神霊というものを神学的に理解できていたでしょうか。指を二本伸ばし、長髪で後ろに三本の後光があれば何でも拝まねばならないというようなことを言っていたでしょうか。

 昔の教父たちは、異教徒を論理ではなく生活や奇跡などによって打ち負かしてきました。しかし、今の大先生は論理でもって不作法なやつらを論破(ろんぱ)するのです。これらの輩を戦いにいかせていたら、キリスト教徒は勝利を収めていたでしょうね。何といってもどんな冷血漢も彼らの手練手管(てれんてくだ)にはかないませんからね。どんな無気力な人間も彼らにはピクリとさせられるのです。このような神学的態度に対して、より良い学芸を学んだ神学者たちは、単に屁理屈(へりくつ)をこねるだけで、その中身は嘔吐(おうと)をもよおすようなもので神を冒?(ぼうとく)するのだという人もいます。しかし、自称神学の大先生と呼ばれる人々は、彼らの忠告には一切おかまいなく三段論法を積み重ね、方々の学校で自説を教えるお遊びをしているのです。そして自分たちこそ教会を支えているものだとし、自分たちがいなくなれば教会など崩壊しかねないと思っています。

 このような連中がどれほど幸せかわかるでしょう。まるで蠅(はえ)でも扱うように聖書をこねくり回します。自分達が得た結論を最上のものとし、教皇の言われることよりもすぐれたものとでも言いたげに提示します。また自分たちの決めたことに合致(がっち)しないことはすべて取り消さねばならないとまで言いだします。「その命題は不敬(ふけい)である。異端(いたん)の臭いがする。音色がおもしろくない」などと理由づけします。彼らの賛同を得ないとどんな人間もキリスト教徒としては扱ってもらえないのです。「尿瓶(しびん)よおまえは臭い」と言うことと「尿瓶は臭い」が同じことだと言ったら、そのように言う人間は、キリスト教徒でなくなるとまで彼らは言うのです。彼らにとって「鍋で煮る」と「鍋の中で煮る」とは明確に違うのだと言い張るのです。

 これらの先生は、事細かな誤りを見つけ出します。また彼らの描く地獄の描写などは、まるで彼らがそこに数年でもいたかのように表現します。その時、彼らは幸福そのものなのです。あるいは、新しい天上界(てんじょうかい)を勝手に造り、そこで自由に生活し、散策し、遊ぶなどの様子を描き出したときなどは、彼らはなんと幸せそうなことかと思われます。これらのことを考えるだけで彼ら大先生の脳みそは一杯(いっぱい)になってしまいます。神学者の大先生が討論会の時、帽子をかぶるのは、そうでもしないと頭が粉々になってしまうからですよ。

 神学者たちが、どんなことをして、その神学者としての威厳(いげん)を打ち立てようしているのかを見ていると笑わずにはいられません。それはまさしく野蛮でゲスな言葉を吐き散らかすことによって成し遂げているのですよ。どもり競争です。どもりでもなければいったい何を言っているのかわけ分かりません。自分の才能はひらめきだと称し、文法に従った文章など書きません。自分たちだけに通用する話し方をし、これらは神学者の特権ともなっているのです。それでも、大勢の人からうやうやしくお辞儀(じぎ)されるごとに、自分たちは神々のとなりに座っている気持ちになるのです。

 神学者の次にあげるのは、修道士や修行者です。しかし、この呼び名はまことにインチキで、彼らこそ、宗教から最も遠のいた存在なのです。彼らは私が援助しない限り、この世の中で最も不幸な人間であると思います。彼らは、人々から不吉だとして忌(い)み嫌われているにもかかわらず、おかまいなしで自分達はとても偉い人間であると自惚(うぬぼ)れています。彼らは最高の信仰者とは、無知無学で本を読むことさえできない人間であるべきだと考えています。彼らは、教会で訳も分からずがなり声で歌を歌っていますが、それが天国の聖人を喜ばしているとでも思っています。汚い恰好(かっこう)をして垢(あか)まみれで乞食(こじき)同然の姿こそ信仰者だとして、それを見せびらかす人さえいます。パンをもらうために門の前で唸(うな)り声をあげたり、平気で宿舎に割り込んだりして、本当の乞食の邪魔(じゃま)をします。不潔で無知で破廉恥(はれんち)なのに、それでいて彼らは自分たちこそ真の信仰者だとして、使徒きどりでおめでたいのです。

 一番奇妙(きみょう)なことは、彼らが行うことはすべて一定の規則に縛られているということです。そして、その数字的な決め事に少しでも異なるところがあったら、彼らは自分は重い罪を犯してしまったことになると思っていることです。靴の結び目の数から帯の色・布地、着物の織り方、頭巾(ずきん)の形、睡眠時間まで事細かに決められているのです。そしてそれが、自分にだけ関わることならまだいいのですが、それを他人にも同じように強制するのですから、何と始末の悪いことであると言えるでしょうか。しかし、このことこそが、彼らの得意とするところで、そのようにしない一般の人々や他宗派の人間を軽蔑するもととなっているのです。
 口では使徒の慈悲を説く人間が、少しでも濃い色の着物を着たり、少し違った着方をしようものなら、大声を張り上げてののしります。中には、お金にさわることを毒にでも触れるように恐れるくせに、酒や女に触れることは平気な人間もいます。その上、何何派など特別な名前で呼ばれることをひじょうに喜びます。宗派の数には限りがありません。

 これらのご連中の行う儀式や人間がでっち上げた言い伝えは、彼らには実に値打ちのあるもので、これらを守り抜いたものだけが天国に行くことができるという報償(ほうしょう)を得ることができると信じています。しかし、イエスはこのような行為を軽蔑(けいべつ)していたはずです。このイエスの心をまるで彼らは忘れているとしか思えません。

 ある者はありとあらゆる食材をため込んでいますし、数えきれないくらい多くの聖歌をがなりたて人もいます。また別の男は一回の食事で腹が裂けるほど食べていながら、何万回も断食したと自慢しますし、積みきれないほどの勤行を行ったと自慢する者もいます。さらには、60年間手袋をせずにお金に触ったことがないと自慢するものもいますし、脂汗まみれの頭巾を差し示し自慢する者もいますし、55年間も同じ場所で暮らしたと誇る奴もいますし、絶えず黙っていたために話をする習慣をなくしてしまったというものまでいます。

 キリストはこんなものを大事にせよと言ったことはありません。愛のみを唱えたのです。自分の善行を心得すぎている人間など私は決して認めません。もし、彼らが、自分たちは私より聖なるものであると認められたいなら、どうぞ勝手に好きな天国に行くのもよろしいし、もう一つ新しい天国でもつくってもらって、そこにでも行けばいいのです。しかし、そこでもし、彼らより水夫や馬車引きのほうが大事にされているとしたらどんな顔をされるでしょうかね。まあ、それに気づくような事が起こるまでは彼らも私のおかげで楽しい夢を見ていられるのですがね。

 これらの連中は、国家・公共のことは何一つ気にもかけませんが、だれもこのことで彼らを軽蔑(けいべつ)しませんね。なぜなら彼らは、懺悔(ざんげ)によってあらゆる人々の秘密を握っているからです。当然、彼らも自分たちが手にしたこの秘密を漏(も)らすことは罪になることを知ってはいますが、酒の席では名前こそ出しませんが、どこの誰かは十分推量できる形で、それらを肴(さかな)にして大笑いしています。またこういう連中を怒らせたら大変です。説教においても遠回しにはしながらも、これら憎い敵のことを題材にします。よっぽど鈍い連中でない限りだれのことか分かるように話し、仇討(あだう)ちをします。やつらの口には餌(えさ)でもくわえさせておかないと、絶えず吠え続ける犬と同じです。

 どんな喜劇役者も彼らにはかないませんよ。雄弁家のまねをするのは堂に入ったものです。身振り手振りをまじえ、声に調子をつけ震わせ、表情を変えながら、最後には大声で叫び出すのです。説教の方法などは手練手管(てれんてくだ)の奥義(おうぎ)として秘伝(ひでん)されているのです。まず祈祷(きとう)からはじめ、愛について語る時にはエジプトのナイルの話を出すとかそのパターンは決まっているのです。
 私も、ある立派な瘋癲(ふうてん)学者が三位一体(さんみいったい)の説明をしているのを聞いたことがあります。自分の知識がいかにすばらしいものかを見せびらかせるために、実に新奇(しんき)なやり方をしていました。いかにも馬鹿げた文法上のことや数学まで持ち出して事細かく説明していました。聞いている人々はいったい何のことやらわからず、どんなことになるのか心配しましたが、ご当人はいっこうにおかまいなくすべて文法上の原理と数学的図象の中で説明がつくとしていました。この神学者はこの講演のために9か月も準備に費やしたといいます。いまではそのためか、その神学者は盲目になっています。しかし、栄光を得たとして全く後悔のそぶりもありません。

 また違う偉い有名な神学者は、イエスの字を分解してそこに罪という意味が隠されていると文字学的に証明したというというのです。イエスという言葉が格により三種に変化することから三位一体が証明されたとも言いました。罪までもイエスという言葉を分解すれば説明できるとしたのです。

 いまだかつてどんな人間にしろ、こんなバカげた前置きをして話を始めた人間がいたでしょうか。自然のなかで暮らす豚飼いの男でさえ、こんな前置きをして話はしませんよ。ところが、わが学校の先生たちはこの修辞学(しゅうじがく)を傑作たらしめようとしており、いったいどんな話を始めるのかと聴衆が驚嘆(きょうたん)したら、彼らのたくらみは成功なのです。
 そういう輩に限って本来の福音書にはちょっとしか触れるにすぎません。さらに神学上の問題を論じたてまくり、これこそが自分たちの本来のあり方だとのたまわります。さらに、自分は尊大であることを示すために神聖博士などの称号を求めます。そして、何も分からぬ民衆に三段論法でわめきちらすのです。はてには最後にはくそ面白くもない寓話(ぐうわ)を持ち出し、世にも奇怪なでっち上げを語るのです。

 また、この連中は、前口上(まえこうじょう)は自分にも聞こえないくらいの低く小さい声で話すべきだということを知っています。そして人を感動させるためには時々大声を張り上げなければならないということも知っています。だから彼らは突然前後の見境もなく凶暴な叫び声をあげます。またしゃべりながら徐々に熱くなっていくべきだということも教わっています。くだらないことでも熱弁し始めます。だから彼らは話が終わると息が切れています。

 また修辞学(しゅうじがく)者は、笑いを織り交ぜることを心得ていますので冗談を言っては場を陽気にしようとします。まあ彼らはそこらにいる道化師と変わりません。いや話自体は道化師のほうがもっと上手でしょう。しかし、彼らも私のおかげで賛美される者となっているのは確かなことです。特に商人や女どもの追従でかくも自分を誇っていられるのですね。商人は、これでもかというほどのおべっかを使ってやれば、自分たちに金が回ってくるのをよく知っています。女はこれらの連中に亭主の悪態をぶちまけるという楽しみを持っているのですよ。これで、どれだけ彼らも私の御厄介(ごやっかい)になっているかわかるでしょう。嘘八百、滑稽なでたらめ、わめき声だけで人間世界に暴君(ぼうくん)として君臨(くんりん)できるのですからね。

 次に王様や大貴族の話に移りましょう。もし、これらの人々か少しでも良識をもっていたら、その生活くらいもの悲しいものはないでしょう。真に君主らしく行動しようとするなら、多くの尊い犠牲まではらってその地位を得ようとする人はいないでしょう。一旦権力を手にしたら、自分のことなどさておいて公共のことだけを考え続けねばならないし、自ら発した法規(ほうき)には、自分は当然のこととして一寸たりとも逸脱(いつだつ)することはできないし、行政・司法の面においても公正を貫かねばなりません。王とは、人々に幸福をもたらすものにもなれば、厄災(やくさい)をもたらすものにもなってしまうからです。他の人間でこれほど重大な影響を及ぼすものはありません。王侯は財宝に恵まれておりますので、あらゆる誘惑に取り囲まれています。それらの誘惑に惑わされることなく、己の義務を果たすためには大変な努力が必要です。それだけの責任が絶えずあるのです。

 もし王侯が自分のこの立場を省みるなら心安らかに睡眠することも食事を楽しむこともできないと思います。けれど、こういう時に私は、彼らに恩を施(ほどこ)すのです。王侯たちはこの心配をすべて神に預け、魂の不安の一切を取り払ってくれる術を心得た人々の言葉しか聞きたがらないのです。狩猟(しゅりょう)したり、立派な馬を飼ったり、自分の金庫に財宝を入れるための方法を毎日発明したりさえしていれば王者としての役割は十分果たした気持ちになっていられるのです。
 不正を正義らしく見せ、人民大衆の人気を得ておくためのおもねる方法も心得ているのです。この世の実際の王侯を思い描いてみてください。法律を認めず、快楽におぼれ学問を憎み、公益をせせら笑い、自分の欲望と利己心のみに生きています。このような王侯に黄金の首飾りや冠を与え、国家への献身を意味する衣など着せて、どんな人間よりも優れた存在ですよとでも言ってやりなさい。普通の人間なら恥ずかしくて顔を赤らめ、いつ辛辣(しんらつ)な笑いを浴びせかけられないかびくびくしてしまうでしょう。

 さて、宮仕えの方々について述べましょう。彼らぐらい平つくばってへいへいして、阿呆で卑(いや)しい人間はいません。そのくせどこへ行っても最前列へのさばり出ようといたします。彼らは、美徳やすぐれた知識を持っているという証(あかし)である黄金や宝玉を身に付けていますが、それだけで満足し、美徳や知識を生かした実践は人まかせで自分には関係ないという態度です。こういう輩の一切は、王様に対して「閣下」「殿下」「大君」の三つをはさむことを心得ています。赤面などせずに追従やお世辞を言う才能を持っているのです。そのために自分の面(つら)の皮をいつもテカテカに光らせているのです。

 彼らは、昼ごろまで眠って朝飯を食べるとすぐ昼飯を食べ、それからサイコロだ将棋だ道化師だ浮かれ女だとお遊びをして、その間に一度か二度軽い食事をして、そして夕食の食卓につき酒宴(しゅえん)を行うのです。

 このように彼らは何一つ人生が厭(いや)になることを経験することもなく月日は過ぎていくのです。これにはさすがの私もむかついてきて、彼らとはおさらばしたくなることもあります。何といっても、人より長い裾(すそ)を垂(た)らしていればまるで妖精(ようせい)にでもなったつもりの輩に取り巻かれ、肘(ひじ)はり競争をして、少しでも重い首飾りをぶら下げて自分の権勢を見せびらかそうとしているのだからですね。

 教皇・司教の方々はどうでしょう。彼らは、王侯そこのけの勢いです。すこしでも自分を省(かえり)みたら次のようなことが分かるのではないですか。白い法衣は汚点のない生活の証(あかし)ですし、結びつけられたミトラは新約と旧約聖書に対する深遠な知識の象徴ですし、手袋は人間生活の汚れから浄められているということですし、胸にさげた十字架は人間の情念に対する勝利の印であることは承知のはずです。
 これらのことに思いをめぐらせたら毎日の生活が悲哀に満ち、不安でたまらないはずです。ところが今までのところ、彼らは美衣飽食(びいほうしょく)する以外何も考えてなどいません。多くの子羊の世話は、神や自分たちの代理人にまかせきりです。司教という称号の「勤労」「配慮」などの意味はすべてお忘れです。ところが、いざ金儲けの段になると俄然(がぜん)、司教におなりになります。目を覚(さ)まされるのです。

 これと同じように枢機卿(すうききょう)がたも自分たちが使徒の後継者で布教の義務を課されていること、霊的な財宝の所有者ではなく分配者であることを悟らねばなりません。
 衣の色は品行の純潔さや神に対する愛、衣の大きさはすべての人に援助すべき慈愛の大きさを表しているはずです。つまり、人を導き、激励し、慰(なぐさ)め、矯正(きょうせい)し、警告し、戦乱を終わらせ、人々のために財宝はおろか、自分の血さえも惜しげもなく差し出すことを意味しているはずです。第一、使徒としての役割を果たすべき枢機卿に地上の財宝など必要でしょうか。もし枢機卿たちがこれらのことを反省し、その高い地位に対する野望を捨てるなら、昔の使徒のように勤労と献身の生活を送られるはずです。

 もし教皇が、キリストの清貧(せいひん)、忍苦(にんく)、賢明、苦難、その現世蔑視(げんせいべっし)をまねようとされ、その教皇を意味する「至誠(しせい)なるもの」の称号(しょうごう)のことをお考えになったら、この世でこれ以上の不幸な人などいないでしょう。この高位を買い求め手に入れ、そのあとは剣と毒薬とあらゆる暴力でそれを守ろうとする人がいったいいるでしょうか。もし、彼らにたまたま知恵が宿ったとしたら、あれほどの財宝、栄養、課税権、衛兵、快楽を、そしてあれほどの数の馬などの特権を自ら手放さなければならないのですよ。それを、ほんのわずかの私の計らいで、すばらしい商売、莫大な収穫、大海のような幸福を手にできるのです。
 もし、こういうものを手放したなら、徹夜、祈祷(きとう)、説教、研究、苦行など面白くもないことをやらなければならなくなるのですよ。さらにそうなると、今度は書記や公証人(こうしょうにん)、弁護士、秘書官などはどうなるのでしょうか。いわゆるローマ教皇庁の御厄介(ごやっかい)になっている、いや言い間違えました、支えている人々は飢餓(きが)に瀕(ひん)してしまいますよ。だから、教会の首長たるかたがたが、杖(つえ)にずた袋で暮らす生活にもどることは、非人情的なことになってしまうのです。

 現在では、教皇の一番大変な仕事はペテロ・パウロに任せきりで、もっぱら豪華な儀式やお楽しみにかかりきりです。私のおかげで教皇ぐらい楽しい生活をしているかたはおられません。これぐらい何の心配事もない人はいません。なぜなら、「至聖」とか「至高」とか呼ばれて儀式に現れ、祝聖(しゅくせい)したり呪詛(じゅそ)したりしながら監視の目さえ光らせていれば事足りるからです。奇跡を起こすのも時代遅れで必要ありません。民衆教化などは疲れますよね。聖書の説明は学校で十分おこなっていますしね。祈祷(きとう)も無駄ですしね。貧しい生活をしていると軽蔑されますしね。涙は不幸な者か女が流すものですね。争いで負けることは、自分の足にたやすく接吻(せっぷん)さえさせない人間にとって恥辱(ちじょく)そのものですからね。結局のところ死ぬことはつらいことですし、ましてや十字架の上で死ぬことは不名誉きわまりないことですからね。
 教皇さまの武器は、パウロの甘美な言葉ですね。乱発されますよね。たとえば、聖人執行停止、破門など人々を地獄に落とすものですね。これらのペテロが残した教皇に対する遺産を削り取ろうとするものがいようものなら厳しい罰を彼らは下します。ペテロは「一切を捨ててキリストに従います」と言っているにもかかわらず、教皇様方は、この聖人のためと称して、領地、税、財宝で一王国を築き上げているのです。これらを維持するために、剣と火を持ってキリスト教徒に血を流させているのです。そして、敵と称する人々を寸断し、この教会を守っているつもりになっているのです。教会の敵とは、キリストを取引の材料につかい、教えをゆがめキリストを暗殺している不敬な教皇ではないのですかね。

 教会は血潮(ちしお)で建てられ、血潮で盛大となったのです。それをキリストらしいやり方で維持することができないとでもいうように、未だ血潮を流させ続けています。戦争は野獣にふさわしく、人間にはふさわしくないものです。それは気違いめいたもので、詩人たちは、地獄の醜女(しこめ)から届けられたものだと想像しているほどです。それは実に危険な疫病ですから、良風美俗を腐敗させてしまいますし、極悪の強盗を最上の戦士としてしまいます。キリストとは何の関係もない不敬冒?(ふけいぼうとく)なものです。ところが教皇は一切を放り出して戦争を主な仕事としています。老いぼれなのに、戦争となると出費にもひるまず、疲労もものともせず、一歩も引かず、法律・宗教・平和など人類全体をめちゃくちゃにしてしまいます。そしてそこには博学なおべっか使いがついていて、この狂乱を熱情とか信仰・勇気というような美名で飾り立て、どうやって必殺の剣のさやをはらうことができるかとか、キリストが隣人に対して持たねばならぬと説いた完全な慈悲の心に違うことなく、いかにして、その剣を兄弟の胸に刺すかの方法を考えだすのです。

 教皇はこれを自分の考えで行うようになったのでしょうか。あるいはドイツの教皇のやり方をまねたのでしょうか。今や教皇は礼拝や典礼を捨てて戦うことを本分としています。普通の司祭も自分たちが受け取る税金を確保するために司教に負けずと兵士として戦闘しています。剣であろうと槍(やり)であろうと、何でも来いというありさまです。彼らは、民衆により多くの税金を払うべきだとする口実を古い文書の中から巧みに見つけてきます。同じところに彼らの民衆に対する義務も書かれていますが、それを読むことは忘れています。司祭たる者、天上のことだけに心を用いねばならないのにそんなことは考えようともしません。彼らは、ただ、祈祷をぶつくさ唱えればよいとだけしか考えていません。どこの神様がこういう連中の言うことを聞き取って下さるでしょうか。

 彼らは俗世間の連中と同様、金儲けに奔走(ほんそう)し、そのための法規の知識にもたけています。そのくせ、やっかいなことは他人にまかせます。君主が政治の煩わしさを大臣に、大臣はその代理人に押し付けるように、この連中は信仰心をすべて一般民衆に譲ります。信徒はというと、それを「聖職者」と呼ばれる者につき返します。まるで、自分は教会とは何の関係もなく、洗礼の請願(せいがん)などは形式にすぎなかったとでもいうありさまです。教会に属する在俗司祭は、まるでキリストにではなく、現世に属しているように、修道司祭にその重荷を押し付けます。そして、その面倒を次から次に下位の位の修道士に押しかぶせていくのです。伝道という仕事も教皇から司祭に司祭から助任司祭にと任せていきます。そして助任司祭は托鉢修道士(たくはつしゅうどうし)にと次から次へと下位のものに押し付けていくのです。

 私は彼らの生活をあれこれ詮索(せんさく)しようとしているのではありません。ただ、私のおかげなどなくして、誰も幸福には暮らせないということを示しているだけです。

 罪を罰し、正義を実行させる神も私同様、賢人とよばれる人々を非難し、瘋癲(ふうてん)と呼ばれる人々にあふれるほどの幸福をもたらしているのですから、私のなすことも当然なことではありませんか。運命の女神は賢明な人間ではなく、むこうみずな人間を愛するものです。知恵は人間を臆病(おくびょう)にします。だから賢人はどこへ行っても、貧困・飢餓の中にいて、同情を得ることもなく暮らしています。

 これに対して、阿呆(あほう)というものは、国のかじとりを行い、栄えていくものなのです。もし幸福が宝石で飾り立て、神々のお仲間に入ることなら、知恵などというものは全く無用なものなのです。知恵ぐらい評判の悪いものはありません。もしもみなさんが富を得たいとお思いになったら、知恵に導かれて商売をすべきではありません。知恵のある商人が手にするもうけなどたかがしれています。そういう商人は、嘘をつくことを嫌いますし、もし嘘をついているところをつかまえられたら赤面するでしょう。賢人たちが商売しても多くの富を手にすることはできないのです。

 賢人が教会の高い地位や富を手に入れたいと望んでもその望みは実現しません。むしろ、ロバや牛馬のほうが早くその地位に就き、望みもかなえるでしょう。快楽は心底、瘋癲(ふうてん)の味方ですから、賢人からは遠ざかってしまいます。人生を楽しく送ろうとするなら、賢人であることを避けなれればなりません。出会いがしらに獣と突然ぶつかっても、それらの獣と平気で付き合うぐらいの人間でなければ楽しく生きることなどできません。国王であろうと教皇であろうと友人であろうと敵であろうと、誰もがお金が欲しくてたまらないのです。賢人は、金銭を蔑視(べっし)する以上、彼らは賢人と一緒にいることは避けるのです。だから、私のような痴愚神が礼賛されるのです。人々は、私とともにいることを望むのです。これは単なる自慢話などではありません。ともかく、今からさまざまな文献を引用してこのことが真実であることを証明していきます。

 たとえば、ことわざに「持っていない時は、持っているようなふりをしなさい」というものがあります。それから次のような句が引き出されるのではないですか。「本当に賢いものはバカのふりをする」というものです。まさに、バカのふりをしている痴愚女神こそ、どんなにありがたくすばらしいものかお分かりになることだと思います。痴愚女神が関わるだけで、すべてか賛美されるものとなるのです。「思慮には狂気を混ぜよ」と言った人さえいます。また「ときに、わけのわからない言葉を吐くのは楽しい」とも言います。また「賢人となって怒るより、バカを装うほうがいい」とも言います。「全地上は瘋癲に満つる」ともいいました。最もすぐれた善とは、最も多くの人にとって都合のいいことなのではないですかね。

 それでは次に、キリスト教徒にとって最高の聖典である聖書の内容に基づいて自画自賛してみましょう。勝手なことを言いますがどうか神学の先生、お許しください。「愚か者は数限りない」という言葉が『伝道書』の第一章に書かれています。これはすべての人間に対して語ったことですね。また、エレミアは「すべての人は、自分の知恵によって愚かになる」と言っています。「知恵ある者はその知恵を誇(ほこ)ってはならない」と言ってもいます。要は、賢いのは神だけで、人間は知恵など持っていないということです。人生など痴愚女神のたわむれにすぎないのです。人間はすべて私の支配下にあるのです。

 人生に狂気や痴愚がなかったら、一体何の魅力があるのでしょう。またある弁舌家は「知識を付け加えれば苦しみも増し、知恵を増す者は怒りも増す」とも言っています。また「賢者の心は哀傷(あいしょう)の家にあり、愚者の心は喜楽(きらく)の家」にあるとも言っています。まさに痴愚女神の礼賛であります。

 ちょっと聞いてみます。鍵(かぎ)をかけて大事にするのは、貴重な品物ですか、それともありふれたつまらないものですか。当然おわかりですよね。だから、道端に宝石や黄金がころがっていないのですよね。ということは、人目につく明るいところに出している知恵より、人目につかないところに隠し持っている痴愚のほうがすぐれているということですね。聖書も、自分が賢人だと思っている人よりも、愚か者であると自覚している者の方が謙譲(けんじょう)の美徳を有していると言っています。聖書の中にある「道を歩む愚者は、自分が愚かなため、他の人もすべて愚かだと考える」という一文を私は次のように解釈します。多くの人間が自分は他人と変わらない、いや他人より上だと考えているのに、自分も他者も痴愚という長所を等しく持っていると考えている人は立派だということです。立派な国王にもかかわらず、「私はすべての人間の中で最も愚かだ」と言った人もいます。パウロも「私は誰にもまして狂った人間である」と言っています。まるで狂っているという点で他人に負けるのは恥だとでも言いたいような口ぶりです。

 このようなことを私が申し上げると、えらいギリシャ哲学の先生方は、何たる狂ったような解釈だ、まさにそれこそが痴愚女神と言われるゆえんだとおっしゃることでしょう。パウロが言いたかったのは、自分もあなた方同様、いやそれ以上にキリストを信仰している、キリスト教に狂っているということだと思います。まあ、あなたがたが私を、狂っていると言われるならそれに従いましょう。しかし、逆に私は、あなた方のような狂った人から見れば、狂っているように見えるのだということも言えるのではないですか。

 神学者の先生方は、聖書を自分の思うままに解釈することが許されているのです。たとえばパウロの言葉には、聖書の中にある時は矛盾などしていないが、一旦聖書をでて神学者の先生たちが自由に引き延ばしたり、解釈したりすることで矛盾が生じてくるものがあります。また、聖書の記述内容についても、自分たちにとって都合の悪い所は削り、立場を悪くしないところだけを取り上げて紹介するのです。神学者たちは、聖書の方々からいくつかの単語を拾い上げそれを適当にくっつけて自分の都合のよいように理屈付けをして紹介するのです。たとえ前後の関係に脈絡(みゃくらく)がなく、いや矛盾が生じようともおかまいなく自由に解釈するのです。恥知らずのことなのですが、このやり方が成功をおさめたので法律学者などからは彼らは羨(うら)まれる存在なのです。
 神学者にすれば、聖書の中から適当な言葉を引き出してくれば、火と水を一緒にしてもしっくりとさせることができるのです。神学者の先生方は、キリストは、危機に瀕(ひん)して弟子たちが集まり、「全員で力を合わせて戦いましょう」と申し出た時、そのような思いを取り払い、皆を今までの状態で何か不自由でもあったのかといい、靴も履かせず、食料も何も持たせず一同を旅出たせたのです。

 ところが、今では、財布を持て、食料を持て、衣を売ってでも剣を手にせよと言ったと平気で述べています。キリストの教えは、ことごとく温和・忍耐・人生蔑視(べっし)です。このような解釈が成り立つはずがありません。キリストは、弟子たちに対しても、靴もたとえ衣であろうと一切のものを捨てて無一物となってもただひたすら福音伝道せよと言いました。剣をもてと言ったのは盗賊や親殺しに対しての武器を持てといったのではありません。自分のよこしまな心を切り捨てるための精神の剣のことなのです。それを神学者の先生方は、迫害に対する防術のための剣だと説明します。つまり、キリストが使徒たちをあまりにもみじめな状況で福音の旅に出させることを悔(く)やみ、十分な食料をもち「威風堂々(いふうどうどう)」と旅立たせるようにしたと勝手に修正しているのです。

 彼らは、キリストの言ってきた、福楽は心やさしい人々のためにあって凶暴な人間にはないことや百合や雀(すずめ)を手本にせよなどの言葉は完全に忘れてしまっています。彼らにとっては、剣を平気で持ち、必要以上の物を手にすることもいとわないのです。わが神学者先生は、剣は暴力を退ける一切のもの、ずた袋は生きるのに必要なものを表していると解釈しているのです。それで使徒たちは武器を持ち、財布や食料をいっぱいにして旅立つのです。キリストが、弟子が剣を抜こうとした時、さやにおさめよ、剣を取るものは剣によって滅ぶと言ったことにも全くおかまいなしです。ある人が神学者に異端者を改めさせるためには議論するより焼き殺した方が良いということは、聖書のどこに書かれているかを尋ねました。すると、眉の形からいかにもそれと分かるようないかめしげな老人の神学者が彼に対して、語勢も激しく次のように答えました。異端者は二度訓戒(くんかい)して後、だめなら捨てよと書いてある。それは、生命を肉体から切り離せということだ、これこそが義なのだと説明したのです。また、「悪事をなしたものは生かしておくべからず」と書いてあるから、すべての異端者は悪事をなすものであるから当然、生かしておくべきではないと言っていました。この言を支持する神学者もおり、驚きます。しかし聴衆は、その巧みな演説に賛意(さんい)を示すようになるのです。そして、「悪事をなすもの」の解釈をどんどんと広げていくのです。

 パウロは自分を愚か者だと言っています。キリスト教徒となったがゆえに愚か者になってしまったとも言っています。まさに、痴愚女神の礼讃ではありませんか。さらに彼は「知者となるためには愚か者になれ」とも言いい、キリスト自身も弟子を「心鈍き者」と言っている下りがあります。これらのことは驚くにはあたりません。なぜならパウロはキリストの中にも痴愚な部分を認めているのですからね。まあ、人間のあさはかな知識から見れば、神は逆に愚かに見えるだけだという意味ですがね。十字架の上での言葉も滅びゆく人間には愚かに聞こえるという意味ですね。キリスト自身も神なる父に向かって「あなたは、私の愚かさを知っている」と言っているぐらいです。

 王侯たちは賢者を嫌い警戒しますね。粗野で愚かでバカな人間を愛します。キリストも自分は賢いと思っているような人間は絶えず非難してきました。パウロも「神は愚かな者を選び、愚かさをもって世を救おうとなさった」と述べています。神も「知者を滅ぼし、その知恵を空しいものにする」とも言っています。神は知者ではなく、愚者に教えを啓示したのです。神は知者によってこの地が正されることはないとしています。これはキリストが律法学者ではなく、一般の人々と好んで一緒にいようとされたからです。獣の中でもきつねのようにずるがしこいものは大嫌いです。だから乗り物はロバに乗りました。獅子(しし)にまたがることもできたのですが、キリストはそれをあえてしませんでした。聖霊も鷹や鳶(とび)のかたちではなく鳩の姿で降りてきました。キリストは人々を子羊と呼んだことも頭に入れてください。弱くて、頭が悪いという例えなのです。また彼は自分のことさえ子羊と呼び、またそのように呼ばれることを喜んだのです。
 これはすべての者が痴愚だという意味なのです。キリストは人間の形となって現れた時、痴愚となり人間の罪も背負ったのです。十字架という愚かさを選び、幼児・百合(ゆり)・けし粒など愚かで何の術策(じゅつさく)のないものを手本にせよと言われたのです。あれこれ思うことをせず、ただひたすらキリストに身をまかせよと述べられたのです。

 アダムとイヴに知恵の実を食べないように言われたのも同じことです。パウロも知識をよこしまなものとしました。「私は愚かさゆえに罪を犯したのです」と多くの者が神の前で懺悔(ざんげ)しました。自分の無知を正直にさらけ出せばゆるされるのですよ。十字架上のイエスは、神に対して私をはりつけにした者は、自分が何をしでかしたかも理解できないのでゆるしてあげてくださいと言っています。つまり彼らは無知だったと言っているのです。パウロも知らずにして行ってしまったことはゆるしてくださいと言っています。つまり痴愚であったためだと言ってゆるしをこいているのです。これらは、痴愚女神の力を借りなければならないということを意味しています。

 キリスト教と痴愚はひじょうに関係が深く、賢さとはほんのわずかの関わりしかありません。その証拠に子どもや老人や女は他の者より儀式祭典を喜び、祭壇のそばにいつもいたがります。また宗教の最初の礎(いしずえ)を築いた人は単純さを備えており、学問とは縁遠かったと思われます。キリスト教信仰者は痴愚そのものではありませんか。財産を捨て、罵倒(ばとう)をものともせず、断食、涙、労苦をいとわず、死まで求める。これが痴愚以外のなにものでありましょうか。彼らはあらゆる普通の感情をなくし、狂気を求めているといってもいいのではないでしょうか。瘋癲(ふうてん)そのものですよね。

 キリスト教徒が求めている幸福とは、錯乱(さくらん)狂気以外のなにものでもないのです。
 プラトンの支持者は、魂が物質的なものに影響され、縛られすぎると、真実が見えなくなる。哲学は死を瞑想することだ。哲学により魂が肉体的なものから解放されれば初めて真実が見えるようになるとも言っています。
 しかし、私はそうではないと思います。魂が肉体を正常に用いている間は健全で、逆にその束縛から解放されると「狂気・痴愚」になるのではないですか。なぜなら、人間は解脱に近い状況になると急に予言を行ったり、神聖なものを表出したり、神通力を発揮したりすることがあります。死の間際になった人も同じような状況になることがあります。宗教的熱狂者も似たようなものであります。多くの人はそこに違いを見つけることはできないでしょう。仮にプラトンの言う洞窟の壁に映るものを現実と信じている人々のもとに、真実を見た人がやって来て真実を語ったとしても、真実を見た人間こそが狂気の人間だとして追い払われてしまうでしょうね。

 普通の人間は、肉体的なものを求め、それが唯一のものだと思い込む一方、敬虔な人間はそのようなものを軽蔑し、見えないものを観照(かんしょう)し、心身ともに恍惚(こうこつ)となるのです。普通の人間は財宝を大切にし、魂のことなど最後にしか考えません。それどころか、魂の存在など信じてもいません。なぜならそれらは目に見えないからだと言います。それに対し、敬虔な人間は神に向かって努力し霊魂のために心を砕(くだ)きます。肉体的なものや金銭的なものを蔑視し、まるで腐敗物であるかのように避けるのです。敬虔な人間は、できる限り肉体的な粗雑(そざつ)なものとは無縁なものに向かっていき、仮に所有していても持っていないかのように振る舞います。ただこれらについても、触覚・聴覚・視覚などはより肉体的ですが、記憶・知性・意志などは、より肉体とのつながりは薄いのです。ところで霊魂は、働けば働くほどその真価が発揮されるものです。敬虔な人は、肉体的な感覚は鈍らせようとしますが、普通の人間はこの感覚をおおいに活用します。聖人の中には、ぶどう酒のつもりで油を飲んでしまったという人もいるくらいです。

 性欲・食欲・眠気・怒り・傲慢(ごうまん)などは粗野(そや)な肉体に密接に関係しています。こういうものに対して、敬虔な人は一生懸命抵抗しますが、凡人は逆にそれなしには生きていけません。
 また友情・祖国愛・家族愛などのような中間的な情念もあります。凡人はこれらの情念にも引きずり込まれますが、敬虔な人は、それを滅するか、あるいは最高の所まで高めようとします。父親を愛するとは、父親を至高の知恵を抱えている立派な人間として愛するのです。それ以外に愛する者に対し求めることはありません。敬虔な人は目に見えるものは、目に見えないものより劣っていると考えます。例えば断食にしても、食しないという形式にではなく、情念の制約に重きを置くのです。彼らにとって典礼の形式は無用なものだとは言いませんが、その中身を重視します。そこに霊的な要素がないとしたら何の意味もなく、いやむしろ害になるとまで言っています。ミサとは、諸々の情念を消し去り、キリストの死を自らの中に再現するものでなければなりません。
 しかし、凡人は立ち位置など形式的なもののみに気を配り、決められたとおり行えばそれでよいと考えているのです。それゆえに、敬虔な人間と凡人が互いに相手方を見れば痴愚狂気に見えますが、私にとって痴愚があてはまると思うのは、敬虔な人々に対してです。敬虔な人が求めている最高のものは、まさに痴愚そのものなのです。人を恋するということは我を忘れて相手の中に入り込むことであり、狂気以外のなにものでもありません。自分から出れば出るほど幸福を感じるのです。もはや自分の体の器官を正常に用いることができなくなるのです。その愛が完全であればあるほど、その錯乱もはなはだしく甘美なものとなるのです。恋からさめると我に返るといわれることもしかりです。

 敬虔な人があこがれる天国とはどんな状況なのでしょうか。肉体などは精神が吸い尽くしていることでしょう。特に彼らは生前から肉体の浄化に励んでいたことから、それはたやすくなされ、その精神は志向の知恵の中に吸収されていくことでしょう。これに比べれば、肉体的快楽など一滴の水にもすぎないでしょう。このような気持ちになれる人はたぶんほんのわずかでしょうが、しかし彼らは何らかの狂気に見舞われていることでしょう。脈絡のないことを口走り、人間ばなれしたことを言い、絶えずその顔の表情は変わります。泣いたかと思えば笑い出し、それかと思えばためいきをつき、われを忘れているのです。正気に戻ると自分がどこにいたのかも、眠っていたのか起きていたのかも言うことができないのです。ただその間は幸福であったということだけを知っているだけです。正気になったことを嘆き、ずっと狂人でいたかったと夢見ています。

 以上が私が申し上げたかったことです。いろいろとご意見があるかも知れませんが、痴愚女神のおしゃべりだとして聞き流してください。みなさんは何か結びの言葉を期待しているかもしれません。だけど今まで話してきたことはほとんど忘れてしまいました。それではさようなら、痴愚女神の奥義(おうぎ)をきわめられた方々に喝采(かっさい)をお送りします。(終わり)(30 7/23 改定)



 いかがだったでしょうか。これですべて掲載いたしました。感想はメールにてご連絡してください。

連絡はこちらまで、感想もそえてくだされば幸いです inserted by FC2 system