『自省録』

(西洋版「論語」ではないか)!



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「マルクス=アウレリウス=アントニヌス」




 この本は書き出しから、人生訓で満ちあふれています。途中からは皇帝の立場にも立って、政治へのあり方などを淡々と語りはじめますが、人間としてのあり方・生き方を追求する自己に対するきびしい態度は一貫して変わりません。ひょっとしたら、孔子の言行録である『論語』よりもはるかに分かりやすく人間の生き方を説いているのではないでしょうか。




−誰でも読めるシリーズ−


『自省録』 (マルクス=アウレリウス=アントニヌス)


 私は、次のことをいろいろな人々から教えられ、そして学んだ。

(祖父から)
 穏(おだ)やかでやさしく、何事にも怒(いか)らない落ち着いた心を持つこと。
(実父から)
 節度(せつど)ある生活を行い、勇気ある心を持つこと。
(母から)
 神を敬(うやま)うこと。人にはものを惜(お)しまず与えること。悪い行いをしないばかりでなく、悪い思いもいだかないこと。節約をして質素な暮らしをすること。
(祖父の父から)
 教育のためにはお金を惜しんではならないということ。
(ある偉大な先生から)
 競走馬のレースのようなかけごとに夢中にならないこと。どんな苦労にも耐えて、乏しく貧しいい生活でも満足できる心を持つこと。人にはお節介(せっかい)をせず、自分のことは自分で行い、人の手助けをあてにしないこと。人の悪口を言わないし、人の悪口を聞かないようにも努めること。
(絵の先生から)
 くだらないこと、つまらないことに関わらないこと。魔術やまじないを信じないこと。飼育している動物に気をうばわれないこと。人の指摘(してき)は素直に受けとめること。哲学に親しむこと。法律を学ぶこと。幼いころから書物を書くことになじむこと。毛布一枚と寝る所さえあれば十分だと思えるようになること。
(ストア派のある先生から)
 善良な人間となること。自分をみがくこと。上手な話し方をする人間にあまり熱中しないこと。実践(じっせん)ではなく理論にだけにかたよった学説(がくせつ)に頼ろうとしないこと。道徳談義(だんぎ)に没頭(ぼっとう)しないこと。自分は努力家であるとか善い行いをする人間だとかを自慢しないこと。しゃれた言葉を使うこと、立派な衣服を着ることにこだわりを持たないこと。手紙は素直に飾(かざ)らない言葉で書くこと。
 乱暴で無礼なけしからない行動ばかりをしてきた者が自身の過ちを認め正そうとした時、すぐさまそれを受け入れること。おおざっぱな理解の仕方に満足せず、しっかりとその内容をつかむこと。口のうまい人には簡単に同意をしないこと。
(ストア派の他の哲学者から)
 何事も偶然にまかせることなく、自分の意志で決断すること。衝動(しょうどう)的な行動はしないこと。たとえどんな災難の中でも自分を見失わず、常日頃と変わらない態度でいること。また、同じ人間がある時は激しく、ある時には穏やかであることを知ること。人に何かを説明する時には、決して苛立(いらだ)たないこと。自分の豊かな経験と知識を惜しむことなく人に伝えること。好意のしるしを受け取るとき、相手に対して媚(こ)びることもなく、それかといって不作法に無視することもないこと。
(別のストア派の哲学者から)
 他人に親切にすること。年長者を敬う家庭をつくること。「自然に従って生きる」こと。気取らないこと。友人の希望にそうようつとめること。知識もなく、非科学的なことを言う人々に対しても我慢する心を持つこと。人に対してお世辞を言うわけではないのに、他人から尊敬される人がいること。怒りなどの激しい感情を表に出さず、欲望に心が乱されることもなく、いつも平静で、愛情に満ちた人間であること。上手な話し方をしようと思わないこと。博学(はくがく)であるがそれを見せびらかせないこと。
(文献の研究者から)
 他人の言い間違いなどに対して、皮肉(ひにく)などを言わないこと。文法的に不正確で間違ったことを誰かが言ったとしても、そのことで彼を非難して責めることなどせず、むしろ彼が言えなかったことを一緒になって考えたり、またある時はその言えなかったことを暗示(あんじ)してあげたりすることによって、うまくそれを話の中に持ち込んでやること。
(弁論術の研究者から)
 残虐(ざんぎゃく)な君主の心をさらにダメな状態にしていくものは、人を疑う心、ずるがしこさ、本心ではないうわべだけをつくろった行動であるということ。貴族とよばれる人々の多くが、あたたかい心、人を愛する心を持っていないということ。
(プラトン派の哲学者から)
 「私は忙しい」という言葉をできる限り使わないこと。また、今やらなければならない用事があるという理由で、社会の中で自分が果たさなければならない義務を怠(おこた)るようなことがないこと。
(別のストア派の学者から)
 友人が無理難題(なんだい)を押し付けてきても、決して無視せず、常に仲の良い状態を保つように努力すること。師(し)に対しては尊敬の心を持つこと。また子どもに対しては、慈(いつく)しみ愛する心をいだくこと。
(ペリパトス派の哲学者から)
 家族を愛し、真理を愛し、正義を愛すること。政治的権利の平等と言論の自由を保障した民主的な政治体制をとっている国家が存在すること。国王が支配しながらも、国民の自由や権利を第一に考えそれを尊重する国があること。哲学に対する変わることのない尊敬の念を持つこと。人に親切にすること。物惜しみせず人に施(ほどこ)す心を持つこと。自分は友人から愛されていると信じ、そして愛されることを期待し続けること。自分が何を欲し、何を欲しないかを他人が推測するまでもなく、明確(めいかく)にしておくこと。
(別のストア派の哲学者から)
 自分にわき起こる欲求を我慢(がまん)し、その場で生じた衝動(しょうどう)に振り回されて行動しないこと。病気の時にも元気な心を失わないこと。あたたかく調和のとれた人柄であること。自分に与えられた仕事を不平も言わず行うこと。人の言葉を聞けば、それが心の底から発せられたものだと信じることができ、人の行いを見ればそれが悪意から生じたものでないことを信じられること。物事に驚かず、軽率(けいそつ)な行動をとることもなく、物事にしり込みすることもなく、困惑(こんわく)することもなく、気落ちすることもないこと。愛想(あいそう)笑いをしたかと思えば、怒りをあらわにするようなことがないこと。人をねたみ、疑うことなどがないこと。人に役立つことを行い、広い心を持ち、誠実であること。実直(じっちょく)で正義からはずれた行動などをしないこと。人が私から見下されたと思うこともなく、人から自分が見下されることもないこと。明るく好ましいと思われる人間であること。
(養父から)
 温厚(おんこう)であること。しっかり考えて決めたことは、簡単に変えてしまうことなどないこと。名誉にとらわれず、働くことを好み、困難にあってもくじけない心を持つこと。社会に役立つ提案をする人の意見に対し耳を傾けること。人に対しては、その人にふさわしい対応をすること。力を入れる時と抜くときの加減を身につけること。少年への同性愛を慎むこと。他人が今どんな心持ちでいるかを想像できること。友人に伴に食事や旅をすることを強要しないこと。また、友人が私から離れた後、また近づいてきたとしても変わることなく彼に接すること。
 話し合いの場で出される意見に簡単に同調せず、詳細に検討を重ねる粘り強さを持つこと。友人に対しては飽(あ)きるような感情を持つこともなく、のぼせあがることもないこと。明朗(めいろう)な心を持ち、やたら何かを欲しがるようなことがないこと。先のことにも思いをめぐらし、どんな小さな事にも準備を怠(おこた)らないこと。他人の自分に対する賞賛やこびへつらいを拒否すること。たえず、政治に関心をもち、国家の財政を的確に管理し、かつそのために生じると思われる人々の非難や攻撃には耐えること。
 迷信に惑わされることなく神を正しく信仰すること。事実でないことを広めて人を間違った方向に導くことがなく、民衆に対しこびへつらい機嫌(きげん)とりをすることもなく、いつも正しく着実であること。洗練(せんれん)された感性(かんせい)をもち、新しいものばかりを欲しがることもなく、めぐまれた生活環境の中で暮らせることに得意げになることがないこと。言い訳をせず、手元にあるものを自然に使い、なければないですましてあえて求めようとはしないこと。人から話が上手だとかおしゃべりだとか言われず、大人として認められ、自分の行動も管理できる人間であること。
 哲学者を尊敬しながらもそうでない人に対して否定的な態度を取らず、しかも彼らに引きずられることがないこと。適度な人付き合いができること。生きることに過度に執着することがなく、それだからといって無頓着(とんちゃく)でもなく、必要最小限度の医療にたより、自分の健康に適切に配慮していくこと。人並み外れた能力を持つ人に対して嫉妬(しっと)心をいだかず、それぞれの人が各々の得意な分野でその持てる力が発揮できるよう取りはからうこと。
 すべて祖先の先例に従って慎重に物事を行うが、そのことを自慢(じまん)しないこと。軽率(けいそつ)な行動をせず、じっくりと同じ場所、同じ事に腰をすえることができること。頭痛の発作のあとにもすぐに気力を取り戻し、いつも元気よく仕事に励むことのできる根性を持つこと。あくまで秘密は少なく、もしあるとしてもそれは社会のために必要なものであること。公共の催しを行ったり、公共の建築物をつくったり、あるいは国民への施(ほどこ)しをする場合は、しっかり考えてそのあるべき限度を超えないこと。そしてそれは、必要であるから行うのであって、名声などを得ようとして行わないこと。
 決めた時間以外に入浴することがなく、食い道楽(どうらく)でもなく、着る物にも過度にこだわらず、若き肉体の華やかさに心奪われることもないこと。冷酷(れいこく)でなく、乱暴でもなく、怒りやすいと言われることもないこと。十把(じっぱ)ひとからげでいい加減に判断することなく、物事を個別に考慮し、心乱されず平静で、首尾一貫(しゅびいっかん)した行動をすること。この世の誘惑に惑わされることなく節制をし、自己をしっかりと管理し、困難にあってもくじけることがないこと。

最後に、次のことは神々から与えられたこととして感謝する。

 よい家族、よい親族、よい友人、よい師に恵まれたこと。また自分は偶然なきっかけで、彼らに過ちを犯さないとも限らないのに、誰に対しても過ちを犯すことがなかったこと。またその可能性を試すようなことを神が私に対してなされなかったこと。
 異常に早く純潔を失うことがなく、長く童貞を守ったこと。自分を正しく導いてくれた父(国王)に仕えることができたこと。彼の教えで、贅沢(ぜいたく)品を必要とせず、簡素な生活をし、それにもかかわらず精神的に卑屈(ひくつ)になることもなく、皇帝として果たすべき役割を果たすことができたこと。また、私を目覚めさせ、自己の心を少しでも良くするようにと向かわせてくれたこと。さらに、尊敬できてかつ愛情をもって迎えてくれる兄弟を持つことができたこと。心身ともに健全な子どもを授かったこと。
 言語学、詩などの学問において著しい進歩を遂げなかったこと。それだからこそ、それらに私はのめり込まず済んだのである。
 わが師といえる人々に、適した時に彼らにふさわしい地位を授けることができたこと。「自然に従って生きる」ことの意味を心に明確に描くことができたこと。この世に存在するものは神によって配置(はいち)されたものであるから、それらは「自然に従って生きる」ことに何の妨げにもならないことが分かったこと。もし、私がその境地にいたることができないなら、それは自分に罪があるということを認識できたこと。
 自分が長い間、健康で暮らせたこと。恋に落ちても魂の健康を取り戻すことができたこと。後悔するようなことをしなかったこと。母は決して長寿ではなかったが、亡くなる前数年一緒に暮らせたこと。金銭に困っている人に援助をしようとした時、自分に金銭的に余裕があったこと。また、他人から経済的援助を受ける必要がなかったこと。子どもの教育のためのよい教師に出会えたこと。夢のお告げにより、吐血やめまいの時にも、よい治療法に出会えたこと。哲学を学ぼうとした時、道理に合わない言葉を使おうとする者や、机上論をふりかざす者に惑わされなかったこと。


 私はたぶん今日も、お節介(せっかい)な人間や恩知らずの人、傲慢(ごうまん) な輩(やから)やうそつき、さらには人を非難したがる人間や非社交的な人間に出会 うことであろう。なぜ、彼らはこのような悪い性質を持っているのか。おそらく彼ら は、自分がそのような性格であることを悪いことだとは思っていないからであろう。
 私は彼らとも付き合っていかねばならない。しかし、私は彼らから悪い影響を受け るようなことは決してない。なぜなら、私は善とは美しいものであり、悪とは醜(み にく)いものであることをよく知っているからだ。また、彼らも私と同様に理性とい うものを持ち、神からひとかけらではあろうが、その神の性質を分け与えられてこの 世に生まれてきた者であること、さらには彼らと私は、手と足や上のまぶたと下のま ぶたの関係と同じように、協力し合うためにこの世に生まれ出てきたことを私は知っ ているからである。そのような人間同士が互いを悪い方向に導きあうことなどないの である。
 同様に、私は彼らに怒りをいだいたり、彼らを避けたりすることもない。人間同士 が互いに怒りをいだいたり、相手に背を向けたりするということは、自然の本性に反することなので、あってはならないことだからである。

 私という存在は、肉体と呼吸、そして私自身を支配し指図する精神の三つから成り 立っている。肉体とは何であるか。それは単なる臓器の集まりに過ぎないものだ。そ れほど重視すべきものではない。それでは、呼吸とは何か。それは、そのつど異なる ものを吸い込みそして吐き出す営みにすぎない。しかし、三つ目の私自身を支配し私 にあるべき姿を指し示す精神はそれらのものとは異なるのだ。
 お前は十分に分別(ふんべつ)の持てる年齢になっている。この精神というものを 決して肉体や呼吸の支配下に置くようなことはするな。そして、公共や国家のことを無視するような欲求に操(あやつ)られるな。現在の運命に不満をいだくことなく、同時に未来の運命に疑いの目を持つようなこともないようにせよ。

 この世は、神々の完全なる摂理(せつり)に満ちている。運命も自然の本性に従っ て進んでいる。この世に欠けているものなど何もない。すべては、この摂理により生 まれ出たもので出来上がっている。この摂理や本性に従うものはすべて善である。す べての事物は変化するではないかとお前は言うかも知れないが、それも宇宙の摂理を 保つために必要なことなのである。以上のことをお前は心して、このことをお前の信 条(しんじょう)とせよ。不平をこぼさず、真に優しい心を持ち、神々に感謝して生 きよ。生きるうえでの知識を、やたらに書物にのみ求め、そこから得ようとするよう な態度はやめよ。

 お前は自分のしなければならないことをせず、どれほどの月日を無駄(むだ)に過 ごしてきたかを考えたことがあるのか。神々からその都度(つど)、猶予(ゆうよ)をもらいながらもそれを活用できずに来たことを自覚しているのか。お前には、今すでに次のことが当然のこととして分かっていなければならないはずだ。それは、お前を生み出した宇宙はいかなるもので、その宇宙を支配しているのは何ものであるのかをだ。またお前に与えられた時間には限りがあり、それを大事に使わねば、永遠に去り二度と戻ってこないということだ。

 どんな時にもお前は次のことをしっかりと頭に入れ、肝(きも)に命じよ。仕事は偽(いつわ)りのない態度で親愛の情をもって、自由な精神と正義にかなう方法ですること。そして、すべてのことを、慎重に、正しく、利己心からではなく、運命への不満などから離れて、それが一生の最後の行為であるかのように行うのだ。そうすれば、そこに安らぎが生まれる。お前が心してなすべきことはそれほど多くはない。それだけで十分である。

 自分の顔に自分で泥(どろ)をぬるようなことはするな。自分を尊(とうと)べ。お前のこの人生は一回限りのものである。もっと自分に対して畏敬(いけい)の念を持て。お前の幸福は他人が決めるものではなく、自分自身の心が決めるものだ。

 外からお前の身にふりかかることが原因となって、自身の心を乱して正しい道からはずれるようなことがあってはならない。暇を見つけては善いことを習得し知識を増やしていくのだ。日々の生活の中でいたずらに右往左往(うおうさおう)することは止めよ。また、目の前の仕事をこなしていくことだけに神経を使って疲れ果て、人生のその他の目標を見失うようなことは愚かなことだと自覚せよ。

 他人が今、何を考えているかを知ることができなくても何ら不都合(ふつごう)なことはない。大事なのは、自分の心の動きにたえず注意を向けることだ。

 宇宙の原理と自分の本性とはどういう関係にあるのか。また宇宙の原理とはどのようなものであるのか。そして自分という存在はその宇宙の原理の中でいかなる部分を構成しているのか。これらのことをお前は、心の中で常に問い続けなければならない。また、お前がこの宇宙の根本原理に則(のっと)った行動をする限りにおいて、その行動を妨げることのできる人間など決して現れないということを心の中に留め置かなければならない。

 欲情(よくじょう)による過ちは、怒りによる過ちより罪が重い。なぜなら、怒り により過ちを犯す者は内面的苦痛や良心の呵責(かしゃく)に悩まされながらも理性 に背くのだが、欲情に駆(か)られて過ちを犯す者は、ただ単に快楽に負けるだけの ことだからだ。怒りは例えばわが身に不正を受け、やむにやまれず発生に至(いた) るというような場合もあるが、欲情とは単なるよこしまな感情が起こったに過ぎない とも言えるのではないか。ゆえに、欲情により過ちを犯す者は、自分の心を抑制でき ない女々(めめ)しい人間だと言え、人々の非難をより多く受けるべきだということ は当然なことだと考える。

 いつこの世を去ってもよいように為すべきことを行い、発言し、考えるのだ。もし 神が存在するなら、この世から去ることなど何も恐れる必要のないことだ。なぜなら、 神がお前を悪いことに巻き込むことなどないからだ。また、もし神が存在しないか、 仮に存在していたとしても人間のことなどに何の関心も持っていないのならば、この 世から去ることなど何ともないことだ。なぜなら、そのような世の中に生きていて もお前には何の意味もないからだ。

 しかし、現実に神は存在し、人間のことを気にかけ、人間が悪に陥(おちい)らな いように人間にあらゆる力を与えているはずである。その神がなぜ、この生きている人間を悪い方向に導いていくことがあるであろうか。神ともいえる宇宙の摂理が諸悪を知らないはずはないし、知りつつ過ちを犯すということもありえないのだ。また、当然、神は善人にも悪人にもすべて平等に物事を生じさせるということもないのだ。だから、もし、善人にも悪人にも等しく生ずるものがあるとすれば、たとえば死も生も、また名声も不評も、財貨も貧乏もそうだが、善いものでも悪いものでもないのである。

 無限とも言えるこの広大な宇宙からすればこの世に存在するすべてのもの、また永遠の時間からすれば、人間の感覚や記憶、人を気持ちよくさせる虚栄心や他人からの賞賛、あるいは逆に人を苦しめる恐怖などは、いかに安っぽくはかないものであることか分かるはずだ。
 死とは何なのか。恐ろしくて忌嫌(いみきら)うべきものなのか。いや、死とは自然な営(いとな)みであり、自然を益するものであるのだ。もし、それを恐れるというなら、それは子どもじみた愚かな振る舞いといえるのではないか。また、人間はいかにして、いかなる部分がいかなる状態にある時に神に相対(あいたい)することができるのかも考えてみよ。

 最も憐(あわ)れな不幸とは、他人の心の内をあれこれ詮索(せんさく)するくせに、この世の真理を正しく認識していないとである。そのようにならないためには、自分の中にわき起こる情念やこの世の出来事に対して生ずる不平不満に心が汚(けが)されることなく、わが身を常に清浄(せいじょう)に保つことが必要である。また、神からもたらされるものには絶えず畏敬(いけい)の念を持ち、他人からもたらされることには、この宇宙において人間同士は同胞であるがゆえに好ましいものであるとして歓迎することだ。ただ、人間によって引き起こされることは、その人間の無知のゆえに、善もあれば悪もあることは承知しておくべきだ。

 死後にもまた次の命があるのかなど、今のこの命以外のことをあれこれ考える必要 はない。今のこの命以外のものは、自分が今持っているものではないので、得ること もなければ、失うこともないのだ。今のこの命は、どんなに永らえてもいつかは、わ れわれはそれを終え、ただ一つのもとに帰っていくのである。
 現在あるこの命は万人に対して等しくあるものであり、今持っていないものは、わ  れわれには無縁なものである。過去も未来も失うことなどありえない。なぜなら、現在持っていないものを、人は失うことなどできないからである。

 次の二つのことを肝に命じよ。一つは、万物は永遠の昔より同一不変で未来永劫(み らいえいごう)回帰(かいき)するものである。だから、たかが人間の一生のうちに 変わるところなどありえないということ。二つ目は、人は長生きしようが早く死のう が失うものには変わりはない。現に持っているものを失うだけで持っていない多くの ものなど失いようがないということ、その二つである。

 すべてのことやものとは、つまるところ人の想いにすぎないのだ。そして、人間の 想いである魂は、その人間本人を痛めつけることがあることを注視せよ。それでは、 それはどんな時起こるのであろうか。第一には、その魂が宇宙の摂理に従わない時で ある。それは宇宙の原理原則から離れた時を意味する。第二に、他人に背を向けたり、 刃向(はむか)ったりする時である。第三には、快楽や労苦に自分が屈服(くっぷく) する時である。第四には、偽善(ぎぜん)的行為を行ったり、嘘をついたりする時で ある。第五に、筋を通すことなく、でたらめに物事を行う時である。

 人間の一生など点に過ぎず、肉体は朽(く)ちやすく、魂は狂乱(きょうらん)の 渦(うず)にすぎない。運命など誰にも分からず、名声も不確実なものである。肉体は流れる河であり、魂は夢であり煙である。人生とは一時の滞在(たいざい)に過ぎず、後世の評判など忘れ去られるものに過ぎない。それなら、われわれを護(まも)り導くものは何か。それは哲学のみである。それでは、その哲学とは何であるか。自分をおごらず、かといって卑下(ひげ)することもなく、快楽と労苦に打ち勝ち、欺瞞(ぎまん)と偽善(ぎぜん)ででたらめに行為することなく、他人に対し何かをしてくれるようにあるいはしないように求めることもないことだ。また、自分とは天から生まれ、その一部分であるということを受け入れることである。そして死を心温かく迎えることだ。死はすべての生物の構成要素の変化にすぎない。すべての要素がその構成の仕方を変えるだけのことだ。なにゆえ、それを恐れる必要があるであろうか。死とは自然の本性に従ったものではないか。自然の本性に悪というものは、絶対に存在しないのである。

 人間は人並み以上に長生きできればそれで幸せだというものではない。大事なこと は、この世に存在するもの、また神々のこと、人間のことについて知りつくそうとす る精神的エネルギーをいつまでも失うことなく生き続けているかということである。
 人はもうろくしても、呼吸する、食べるなどの欲求は消えることはない。しかし、 自分がなすべき務めを自覚し、現象を明晰(めいせき)に分析し、心眼(しんがん)でもって物事を見るような能力は、失われやすいものである。それゆえに、そのような精神は、いつも心して働かせるようにしなければならないのである。

 自然はわれわれに優美(ゆうび)さと魅力を与えてくれる。焼きたてのパンのひび 割れているところにわれわれは食欲をそそられ、イチジクは熟したときに裂け、オリ ーブは腐る寸前が最も美しい。稲は実った時に低く頭を垂(た)れる。ライオンの眉 間の盛り上がったところ、イノシシの口から流れる泡など、それだけを取り出せば、 美しいとはいえないが、それらが自然の中で生ずる時には、それらを見た人々はそれ に心を引かれるのである。
 宇宙に生じる諸々(もろもろ)のものも、人が感受性(かんじゅせい)や深い心を 持ちそれらをながめるなら、その心に楽しくうつるはずである。獣の大きく開いた口も美であり、老人の成熟(せいじゅく)も美であり、子どもも魅惑的(みわくてき)なものである。ただこの心情は、自然の営みに親しんでいる人間にしか感じることができないものなのである。

 ある多く患者を治療した偉大な医者も病によって死んだ。人々の死を予言した占い 師自身もその定めに従い死んでいった。偉大な戦績(せんせき)を残した指導者もつ いにはこの世を去った。宇宙天文の研究家もやがて自分の身体の不全により死んでい った。どんな偉大な人間もすべて最後には死んでいったのである。彼らは人生という 船に乗船し、航行し、そして下船したのである。下船したのちに、新たな地に上陸す るがよい。そこが現世とは違うところであっても、そこに神々がいないはずがない。 もし、そこでの存在が無感覚の状態なら、もはや肉体の苦楽に悩まされることはなく なる。肉体とは精神と比べれば卑しく、劣ったものにすぎない。そこでは、もはや肉 体に束縛されることもなくなり、理性・神霊(しんれい)のみに気を配ればよくなる のだ。

 お前は、残されたその生涯を公益に貢献しないことに費やすべきではない。つまり、 誰々が何を何のためにしているとか、また何を言い何を思い何を企んでいるとかに気 をとられ、それらを詮索(せんさく)することに時間を浪費するなということだ。
 また、心にわき起こる分けのわからないこと、よこしまなよけいなことに心奪われ てはならない。たとえば、今突然人から「お前は何を考えて行動しているのか」と問 われても、「こういうことです」と堂々と答えられるような考えでもって絶えず行動せ よということだ。それなら、それは具体的にはいかにあれということか。まず、単純 直接で好意にあふれ、快楽・享楽・勝利欲・嫉妬心(しっとしん)・猜疑心(さいぎし ん)などから離れたものでなければならない。また、恥ずかしくて他人にはとても言 えないような心の持ち方であってはならないということだ。
 これらの思いをいつも心に持ち行動する者は、心の内にわき出る快楽にその心が汚 (けが)されることもなく、労苦に苦しむこともなく、傲慢(ごうまん)に損(そこ)なわれることもなく、邪悪(じゃあく)に影響されず、情念に打ち負かされることもない。さらに、心の中まで正義感がみなぎり、天のもたらすすべてのものを悦(よろこ)びでもって受け入れ、他人の言葉や思いに惑わされることもなく、公共のこと以外で心を悩むこともなくなるのだ。
 そのうえ、そのように生きる人間は、自己の務めを果たすことのみに心をくだき、 天より与えられたものをすべて良いものだとする信念(しんねん)を持っている。な ぜなら、それらのものの運命もまた自分と一緒に天よりもたらされたものであること を知っているからだ。さらにそのような人間は、万人のことを考えて行動することは 人間の本性にかなった良いことだと信じており、このようなあり方を理解しない、自 分に満足しようとしない連中が自分に対していだく評判などは気にせず、ありのまま に生きる人々の評判のみを気にかけるのである。

 公共のことを無視し、よく考えずに行動すること、自分の意思に反した行動をとる こと、これらは避けねばならないことである。自分の心を飾(かざ)りたてるな。つまらない行いはするな。口数は少なくあれ。統率者(とうそつしゃ)としての地位を退くことも、死を迎えることも、その時が来たと判断したらいさぎよくあれ。さらに、明るく、他人に頼ることなく、自らの力で日々の暮らしをせよ。

 正義・真実に則(のっと)り、慎(つつし)み・勇気を持って行動するならそれで 十分であり、あとは天命に従って生きればそれでよい。そして、自分の内にある感覚 的な誘惑(ゆうわく)に引きずられることなく、絶えず人々に配慮(はいりょ)して 生きる姿勢を持ち続けよ。特に、一旦正しい道から外れたことを行うと、もはや正道 (せいどう)に戻ることが困難となるようなことがこの世には比較的多くあることを 心せよ。例えば、他者からの賞賛(しょうさん)・支配欲・富・快楽などは一時的には われわれの心と調和するが、突如として我々を良くない方向に導くものだ。

 信義(しんぎ)にそむくこと、心が濁(にご)っていること、人を憎み、そねみ疑 う心を持ち、偽善(ぎぜん)に走り、そして人を呪(のろ)うこと、そのようなことを自分の心にもたらすようなものを捨てよ。人間、それらを捨て去ることができれば、悲しみから離れ、ため息をもらすこともなく、孤独にさらされることも、さわがしさに悩むこともなくなるのである。さらに、ものごとをやたら追いかけもせず、それかといってむやみに避けることもなく、また長く生きるか、早く死んでしまうかに頭を悩ますこともなく、その時が来たと思ったらいさぎよく清らかに死を迎えることができるのである。

 自分の悪いところを絶えず正し、自分を磨き、清浄(せいじょう)で無垢(むく) な人間であれ。そのような人間は、自分の人生を全うする前に、早死にしてしまうよ うなことなどないであろう。人生の役割を果たす前に、人生から降板(こうばん)す ることはない。そればかりか、そのような人間には、奴隷根性も自分を飾(かざ)る ような心も宿らず、人と結びつきすぎたり、あるいは離れすぎることもない。さらに、 他人に対して自分が身動きが取れないほどの責任を肩に背負うようなこともないし、 その逆に、人から離れて身を隠すような生き方をする必要もなくなる。

 自分の意見を正しく述べることのできる能力を磨(みが)け。また、必要最小限の ものだけを持ち、それ以上のものは捨てよ。人はすべて今という束(つか)の間を生 きているにすぎないことを忘れるな。過去は終わったことだし、未来は不確定なので ある。人生は短く、その占める場所も大地のほんの一隅にすぎない。名声を得たとし ても、それを語る人間さえも泡(あわ)のごとく消えてしまうのである。お前だって 過去の人間の名声など知る由(よし)もないであろう。

 自分の心にいろいろと思いをいだかせるものが何であるかを明確に認識することが 大事である。また自分の人生にふりかかることをしっかり見きわめ、吟味(ぎんみ)することが重要なことである。それらは、宇宙の中でどのような役割を果たし、他の物とはどのような関係で有効性を発揮(はっき)するのか、また人間に対しては何を利するのかなどである。さらに、それらは何からできているのか、いつからいつまで存在するのか、何を必要としているのか、神から与えられたものなのか、偶然に生じたものなのか、仲間からもたらされたものなのかなども知っておかねばならない。それを知っているからこそ私はそれらを、その価値にふさわしいやり方で有効に使うことができるのだ。

 幸福な人生を送ろうとするなら、次のような態度で生活すればよい。正しい理法に従って真面目(まじめ)にかつ力強く、人に対しては善意にあふれ、自分の務めを実直(じつちょく)に果たし、すべきでないことはせず、自分の心を清く保ち、いつ死んでもよいだけの覚悟(かくご)で生きることである。また、どのようなことを行うにしても他者に何も期待せず、他者を避けることもなく、ただ真心をもってひたすら自分がなさなければならないことをただひたすらするだけである。このような生き方をすれば、それを妨害(ぼうがい)するような人間など現れない。

 医者は、急患(きゅうかん)にそなえていつもメスなどの道具を手元に置いている。 同様にお前は、神と人間とは結びついていることを絶えず認識し、すべてのことを念 頭において、事を為さなければならない。
 生き方について知るために、書物に知識を求める必要はもはやない。ともかく、自 分の人生の目的に向かって進むだけだ。いたずらに多くの望みをもつことを止め、自分が大事であると思うことのみを行え。

 いろいろなものを肉体の目ではなく、心の、理性の目で見て正しく判断せよ。肉体は感覚・知覚を形作っているものですべての動物に備わっているものである。それなら、心(理性)とは何であろうか、それは人間だけに備わっているものである。もし、欲求に操(あやつ)られるだけで生活しているのであれば、それは単なる動物にすぎないことを意味する。ただ、仮にそれらを統御(とうぎょ)できるとしても、神を信じず、単に義務として行っているだけの者は、外面をつくろっているだけに過ぎず、鍵(かぎ)をかけて家の中でひそかに悪事をはたらいていることと何ら変わりはないのである。

 それなら、理性をもった善人とはいかなるものか。それは天から生み出し与えられるものを愛し、それを悦んで受けとり、自分の心を汚(けが)すことなく、いろいろな想いに心を惑わされることもなく、柔和(にゅうわ)で、神に慎(つつし)み従い、真実に背(そむ)くこともせず、正義にかなった行動をする人間である。

 ただお前は、たとえそれらのことが理解できない人間がいても、彼らに対して怒ることがあってはならない。たえず、身を清く保ち、もの静かで、くつろいだ気持ちを持ち、己の運命に従い、無理なく、向かうべき人生の目的の道からはずれることなく生きていくことが大事なのである。

 天より与えられるものに、変幻自在(へんげんじざい)に適応できるような柔軟な 心を持て。自分の人生の目標にまい進し、同時にその途上で生じてくるものを、その目標達成のために活かしていけ。例えて言うなら、小さな火は、たとえ燃える材料となるものでも、それらが一度に多く投げ込まれれば消えてしまう。しかし、燃え盛る大きな火は、それらをすべて材料にして、ますます、その火の勢いを増していく。この大きな火のようにいろいろなものを吸収し材料として生きて行けということだ。

 どんな行動でもでたらめに行うのではなく、その規律に従って行え。人間は憩(い こい)の場所として田園や海浜や山地を求める。しかし、自己の内に憩える場所があることを忘れてはならない。自分の中に良い秩序を保てば、そこに安らぎの場所が生まれるのだ。保たれた秩序ある心こそが快適な憩の場所であるのだ。日々の生活に疲れれば、そこで憩、そしてまた新たな生気でもって日々生活すればよい。

 何をお前は、そんなにいみ嫌うのか。他人の悪か。すべての人間はお互いのために 生まれてきたのだ。忍耐とは正義の徳の一部なのだ。人は過ちを犯そうとして犯しているのではない。今までにどれだけ多くの人間が他人に敵意を持ち、憎み、争い、死んでいったことかよく考えてみよ。お前のそのいみ嫌う気持ちを捨てよ。
 第一、この世に分かち与えられたものに対して何故嫌う感情を持つのか。それとも、この世に存在するものは単なる偶然による原子の集合体とでもいうのか。この宇宙はいわば国家と呼べるような、秩序ある組織体であることは承知のはずではないのか。それとも、お前の肉体が足枷(あしかせ)となって、精神が解き放たれず、そのような良からぬ考えに支配されているのか。あるいは、名声というものに心を乱されているのか。人の名声などすぐ忘れ去られる。後世の評判などむなしいものである。仮にお前の賛美者などという者が現れても、彼らは批判的精神が欠如した者たちでかつ変わり身の早い者であることを忘れるな。この狭い土地の片隅にお前を将来ほめる人間がいたとしても、どれだけの人数でかつ彼らがどれほどの人間だというのか。

悩まず、憤(いきどお)らず、自由な市民、一個人として、死すべきものとしてすべてを見よ。そして、次の二つのことを心にとどめよ。一つは、お前の苦悩は外の事物がお前にもたらすのではなく、お前の内部の考えが生み出しているということ。二つ目は、お前の目の前にあるものなどはやがて変化し存在しなくなるものであるということだ。生きるということは主観による判断にすぎないものなのだ。
 理性が普遍的(ふへんてき)なものなら、法もまた普遍的なものである。法が普遍的なら国家も普遍的なものである。国家が普遍的ならわれわれが存在する宇宙も普遍的なものだ。その普遍的な宇宙にまさにわれわれは生活しているのである。そして畏(おそ)れ多くもこの宇宙からこれらの法や理性が生み出されたのである。それ以外にこれらを生み出したものなど存在するはずがない。

 死とは本質的に生と同質の神秘的(しんびてき)なものである。生は同一不変の元素の結合であり、死とはその元素への分解である。死は何ら恥ずべき、卑下(ひげ)すべきものではない。なぜなら、死とは理性的動物の本性に必然的なものであり、自然の理法に反していないからである。
 死とはどんなものに対しても不可避(ふかひ)なものである。この事実が受け入れられない者は、植物が花をつけ実を実らせることを欲しないものである。人生とは束の間であり、死後、人々の心の中に自分の名前がきざまれているのもわずかな期間であることを心に銘記(めいき)せよ。

 自分中心の考え方を取り除けば、自分が害されたという思いは消え去るのだ。自分が害されたという思いを取り除けば、自分に対する害そのものも消えていくのだ。自分の人生を悪くしたり、損(そこ)なったりするものはいなくなるのだ。また逆に自分にとって有益なものは、その役割を果たしてくれるはずだ。

 すべてこの世で生起(せいき)することは、それなりの意味があって生じるのだ。このことをしっかりと認識すれば、人生において見落とすことなどなくなる。たとえていうなら、なぜこの順序で生じたのか、何のために生じたのか、どのような力が働いて生じたのかを知ろうとして、それを理解することである。このことをいつも心にきざみこんで行動せよ。それが「善き人」となる一つの道である。

 傲慢(ごうまん)な振る舞いでお前に害を与えるものがいたら、彼らがいだく考えや、彼らがお前にいだかせようとする考えを決して受け入れるな。絶えず、真理というものだけをとおしてすべてを見よ。

 天が人間のためを思って命ずることのみを実行せよ。また誤れるお前を正しく導い てくれる者がそばにいるならば、心改めてその者に従え。ただし、その改心(かいし ん)は、それが正義にかない公共の利益になるとすべての者が認める時のみ行うのは 当然のことである。つまり、そのように改めた方が見た目がよいとか評判がよいから などという理由で行ってはならないということである。

 お前は、理性を持っているのか。持っているならなぜ、その理性を用いないのか。 理性が本来の働きをしているなら、それ以上にお前は何を求めるというのか。

 お前は今、この世界にその一部分として存在している。そしてお前は、やがて、そのお前を生み出したものの中に再び帰っていくのだ。言い方を変えれば、お前を生み出した理性の中に再び受け入れられるのだ。すべてのものが、この世に産み落とされ、また元の所に帰っていく。遅いか早いかの違いはあっても、すべてのものに例外などない。

 お前は今、人々から猛獣(もうじゅう)だ、猿だと思われているだろうが、もし、お前が万物の原理に立ち戻り、理法に崇敬(すうけい)の念をいだくようになれば、お前をさげすんできた多くの者の目に、やがてお前は神ともうつるようになるであろう。

 自分は1万年も生きながらえることになっているとでもいうような生活態度を改めよ。死は間近に迫っているのではないか。善き者となることが可能なうちに善き者となれ。

 回りの者が何と言おうと、どんなことをしようと、何を考えようと、そのことを気にするな。お前は、自分がひたすら正しく善にかなうと信じた行動をすればよいのだ。そうすれば、生活にゆとりの時間が生まれる。人の心の中をあれこれ覗(のぞ)き見することを止めて、自分の目標に向かって脇目(わき)をふらずまい進せよ。

 死後の自分の名声などにとらわれるな。お前はもちろんのこと、お前を知る者も次から次へと死んでいくのであり、その後継者もまた死んでいくのだ。記憶は一時的には受け継がれるであろうが、間もなくそのすべては忘れ去られるのだ。仮にその記憶が不滅だとしても、それがお前に何の意味を持つというのだ。
 それだからといって、故人の業績を意味のないものだと言うわけではない。今生きているお前が、賞賛を得るために何かをするということにどんな意味があるのかということを言いたいのである。ともかく、お前が人の評判のみを気にかけて行動しているので、このように諭(さと)したのだ。

 美とはそのもの自体が美を持ち、そのものだけで完結するものである。それが賞賛を受けようと受けまいとその美がよりよくなるわけでも、より悪くなるわけでもない。それは自然の事物についても、法や真理、道徳などすべてのことにもあてはまる。黄金も象牙(ぞうげ)も賞賛されようとされまいと美しいことに何ら変わりはないではないか。

 もし魂が永遠に存在し続けるなら、大気はどのようにして増え続ける魂にその場所 を提供してきたのであろうか。また死体も永遠にそのままなら大地はそれらにどのよ うにして場所を提供してきたのであろうか。つまり、われらの屍(しかばね)は、分 解して次のものの血と肉となり、その場所を次のものに引き渡してきたのである。魂 も同じである。しばしの間大気中にとどまるではあろうが、やがては変化流散(るさ ん)し、万物の根源にもどり、次の魂にその場所を提供してきたのである。いや人間 だけではない。我々は、日々どれだけの数の獣を食べ、体内にて埋葬(まいそう)し、 それを自分の血と肉に変えていることであろうか。しかし、そのことにより、それら のものにもまた新たな場所を提供しているのでもある。

 心を外に向けて煩(わずら)うことはやめよ。何かをしようと思う意志が芽生(め ば)えたら、まず心を内に向け、正義にかなった行動をしながら、自分の理性がいつも最善となるような状態に保て。宇宙に調和したものは、自分にも調和する。宇宙にとって好機なものは、自分にとっても早くも遅くもなくいつも好機である。自然が今必要だとしてもたらすものは、ことごとく自分にとっても実りの時である。すべてのものは、お前より出て、お前の内にあり、お前のもとに帰ってくると言えるのではないか。

 自分の理性が求めることをそのとおり行なえばよい。余計なことはしなくても、それだけで十分である。そうすれば、うそやごまかしのない人間となれる。われわれの日々の生活には言わない方がいい、しない方がいいものが結構多くある。それらを捨て去るなら、生活にゆとりもでき、心乱されることも少なくなるものだ。

 いつも事を行うとき、これは必要不可欠なことか自分に問いかけよ。行いだけでなく想念(そうねん)もそうだ。これは必要な想いなのかいつも問え。必要でない想念を取り除くことによって、人はすべきでないこと、する必要のないことをしなくなるのである。

 自分に与えられたものに満足し、自分の行いを正しくし、心を優しく親切にするにはお前はどのようにあればよいか考え、そしてそれを試みてみよ。
 心を乱さず、単純素朴な心の持ち主となれ。誰かが過ちを犯しても、彼は自分自身に対してそれを犯したのであり、お前とは何の関わりもないものなのだ。たとえそのことにより、お前の身に何かが起こったとしても、すべてのことは、悠久(ゆうきゅう)の太古(たいこ)より宿命づけられたものであることを知れ。

 人生は短い。現在ここでいつでも、自分の人生の成果を摘み取れるように生きよ。いつも正しく冷静であれ。いたずらに過度の緊張に陥ることなく、心のびのびと生きよ。この世は秩序つげられた世界か、あるいは無秩序の単なるものの集まりかのどちらかに過ぎないのだ。ただ、よく考えよ。お前だけに秩序というものが内在していて、おまえ以外の外の世界は無秩序の集合体に過ぎないということがあるとでも思うのか。

 腹黒い人柄、女々しい人柄、頑固な人柄、粗野(そや)で残忍(ざんにん)なもの、怠惰なもの、暴君的なものなど、国家の法から逃れるものが亡命者(ぼうめいしゃ)であるように、宇宙に対して明確な認識を持たないもの、宇宙が生み出した事物をそれと認めないものは、宇宙に対しての異邦人(いほうじん)、宇宙の吹き出物だ。心の眼を閉じる者は盲目(もうもく)であり、自分の生活に必要なものを自分で獲得しようとしないものは乞食(こじき)である。
 この世に起こる出来事に不満を持ち、自然の本性から独立して生きようとするものは宇宙の吹き出物だ。なぜなら、その本性がお前を生み出したのだし、すべての事物・出来事を生じさせたのは宇宙の本性そのものだからだ。

 ある者は肌着も着けずに哲学を究(きわ)め、ある者は書物も持たずに哲学をなす。ある哲学者は「私はパンを持たないが、理性は持っている」と言ったという。
 さて私は、学習で得られるような知識は持たないが、理性は堅持(けんじ)している人間だ。

 お前が今まで学び、手に入れた知識・技術は、わずかなものであるかもしれないが大事にし、信頼してそれに身をまかせよ。残りの人生を生きるにあたり、神に心からゆだねる心情をもち、人々に対しては決しておごらず、また奴隷的ないやしい態度もとるな。

 過去の偉大な皇帝に統治されていた国を思い浮かべて見よ。そこにも、今われわれがこの国で目にするすべてのものがあったであろう。人々の結婚、子育て、病気、死、戦争、そして田畑を耕す人、他人におもねる人、傲慢(ごうまん)な振る舞いをする人間、偽善(ぎぜん)をおかすやから、陰謀(いんぼう)をたくらむやから、さらには人の死を祈るような人間、天命に不平をこぼす奴、金をためこむ人、高い地位を望む人間。ただそのような国も今はなくなってしまっている。

 また、違う偉大な皇帝に治められた国を見てみよう。その国も同様なことにあふれていたが、そこもまた今は存在しない。今まで数えきれないほどの国の中で、多くの人々がこのような暮らしを送ってきたが、それらも、すべてなくなり、すべての人々は命を終え、諸元素に分解してしまったのである。

 しかし、どのような状況にあろうと、お前は一時の悦楽(えつらく)にふけり、自分のなすべきことを怠(おこた)り、現状に不満を持ち、より多くのものを得ようとするようなことはあってはならない。また、それと同時に、お前が何らかの行動をする時には、それに適した度合(どあい)というものがあり、それ以上のものを求めるようなことがあってはならない。ささいなことに関わずらって意気消沈(いきしょうちん)をするな。

 昔よく使われていた言葉で、現在はほとんど使用されなくなった言葉は数多くある。同様に、かつては多くの人々の記憶にあった人の名前で、今はほとんどの人が忘れ去ってしまったものも多々ある。どんなにすばらしいものもやがては色あせ、忘れ去られるものである。永遠に名を残す人間などいない。それなら大事にすべきこととは何か。それは、ただひとえに正義を身につけた精神、公共に尽くす行い、うそのない言葉、この世に起こることはすべて必然であることを知り、それは一つの偉大なる根源から生み出されたことだと認識し、それを喜んで引き受けるという心持、態度、行動、ただそれだけである。

 自分の運命をすべて神にゆだねよ。思い出される人間も、思い出す人間も、すべて はかげろうのようにはかないものなのである。万物は、変転(へんてん)し、また新 たなものとして生起する。ただ、その繰り返しなのである。この世に生れ出るものは すべて将来に生まれ出るものの種でもある。大地にまかれ、母胎(ぼたい)の中で育 つものだけが将来につながるものではない。

 あっと言う間にお前はこの世を去っていくだろう。それにもかかわらす、お前の心 は素直ではなく、平静心もなく、外から害を受けないかと疑心暗鬼(ぎしんあんぎ)し、すべての人に優しく接することができないでいる。賢明(けんめい)とは正しい行動をすることだということにすら気付かないでいる。賢い人間とは、何を避け、何を求めるのかを知っているのだ。

 お前の災いの原因は、他人にでもお前の外部に存在する事物の変化にあるのでもな い。お前の災いは、お前の判断そのものの中に存在するのだ。だから、どんなことも独断的に判断してはならない。それさえ守れば、物事はうまくいくものだ。たとえ、肉体的にはどんなひどい目にあおうとも、心は平静に判断しなければならない。善人にも悪人にも同じように起こることは、善くも悪くもないとことであると思え。すなわち、自然の本性に従って生きるものにも、逆らって生きるものにも等しく生じることは、自然の本性に適ったものでも、それに反したものではないということだ。

 この宇宙を一つの魂を持った生き物、意志として考えよ。さらに、すべてのものがどのようにして宇宙に帰属し、また宇宙はどのようにしてすべてのものを生み出したのか、また宇宙そのものがどのような構造をもったものなのかに絶えず思いをめぐらせよ。

    お前は、肉体の衣をまとった、ちっぽけな魂にすぎない。この世に生まれ、変転し流転(るてん)するものに、善いものも悪いものもないのだ。

 永遠の時とは、いろいろなものが生まれそして目の前に現れては流れ去っていく川 のようなものである。そこに生まれ流れるものは、たとえば、バラの花であり秋に実 る果実でもあり日常よく知られたものである。さらには、病も死も中傷も謀反(むほ ん)も愚か者を悦ばせるものも、また彼らを悲しませるものも、すべてこの川を流れ ては去っていく。すべてのものは常に先に生まれたものと関連を持って生じている。 万物は、無意味に無秩序に生まれているのではなく、驚くほどの深い関係のもとに生 じているのである。

 自分の進んでいる道がどこに通じているのかを知れ。すべてを支配している絶対的 な存在というものに目を開け。まるで眠っているとしか思えないようなしゃべり方を したり、行動をしたりしてはならない。また、親から受け継いだものにもっぱら従う だけというような考えのない行動もするな。

 お前の命があと2日と宣告されたら、お前は、明日より明後日を大事にするのか。 たとえまだ死ぬのは先だとしても明日以上に明日以降のことを大事だとは考えないだ ろう。

 どれほど多くの医者が病人を憂(うれ)い治療をしたあげく自分も死んでいったこ とか。多くの人の死を預言した占星術師も、死について述べてきた哲学者も、多くの人間の首をはねてきた王も、人の命を思うままにしてきた暴君も、どれほどの者が今までに死んでいったことか。そしてまた、どれほど多くの国家が栄えては滅亡してきたことか。ある者を葬(ほうむ)った者が、また別の者に葬られてきた。すべては束の間の存在であり、人間とはかげろうのようにはかないものだということ、今日栄えたものも明日は灰となるかも知れないことをしっかりと認識せよ。オリーブの実は、熟すれば、自分を育んでくれた大地にそしてその幹に感謝して大地に落ちていく。そのように、お前も心穏やかにその時を迎えよ。

 このようなことがあったから私は不幸であるのだとは考えるな。そのようなことが あったにもかかわらず、自分は現在、くじけることもなく、また未来のことを恐れることもなく、苦しむこともなく今ここにいるではないか。あのようなことは誰にも起こりうることなのだ。しかし、その中でくじけることもなく今ここにいるということは誰にもできるわけではない。そのようなお前が不運であるとでもいうのか。人間の本性に関わるような失敗をしていないお前が、なにゆえ不運だと言えるのか。人間の本性の持つ意図に反しないものは失敗などではない。
 それでは、その人間の本性の持つ意図とは何であるか。それは、心正しく、慎み深く、賢明にかつ慎重に、うそもつかず、節度をもって生活することである。その状況で生じたことが失敗などであるはずがない。つまり、そこで生じた失敗と思われるものは、不運なことではなく、むしろそれを耐えることができたことが幸運なのだ。

 死をおおげさに考えないために、ただ長く生きることのみに執着して日々過ごして いる人々のことを思い起こしてみるのもいい。彼らにいったい何があるというのか。ただ、多くの人々の死を見送り、自分もやがて死んで見送られていっただけのことである。この世に生きる時間は短い。この世に生きることは果たして一大事なことなのか。長い悠久(ゆうきゅう)の過去の時間と未来の時間を考えれば3日しか生きられないものも、人の3倍も生きたものも何の変わりがあるというのか。絶えず近道を行け。それは自然にかなった道であるはずだ。それは、苦難、陰謀(いんぼう)や虚飾(きょしょく)などから解放された道であるはずだ。

 お前は、自分がなすべき仕事をするためにこの世に生まれてきたはずだ。そして、その目的を果たすために日々仕事をしている。そのお前が、なぜいろいろなことに心を悩ますのか。それとも、お前はふとんにくるまってぬくぬくと暮らすためにこの世に生まれてきたとでも言うのか。確かにそうしていることは快いことだが、お前は、ただそのような快楽をむさぼるために生まれてきたのではないであろう。お前は外から働きかけられるために生まれてきたのか、あるいは外に働きかけるために生まれてきたのかをよく考えて見よ。

 ミツバチやアリ、いやどんなちっぽけな動植物であろうと、すべてが彼ら自身にふ さわしい役割をこの世で果たしているのがお前には見えないのか。それなのに、お前は人間としての役割を果たそうとしないのか。自分の本性にのっとった仕事をすべきではないのか。
 休息をとるなと言っているのではない。ただ、飲み食いに限度があるように、それ にも限度があるのだ。それなのに、お前はその限度を超えて休息していながら、行うべき仕事には勝手に自分の限界を設定して、その枠の中にまんまとおさまっているのではないか。それは、実は自分というものを大事にしていないことであり、自分を愛していないことになるのだ。もし自分を愛しているのなら、天から与えられたお前の本性とそれに対する意図を愛し、それに従うに違いないからだ。

 この世には寝食を忘れてまで自分の仕事に関する技術の上達に打ち込む者がいる。 たとえば彫刻や歌や舞に少しの時間も惜(お)しんで励むものなどがいる。それらの中には、金や名誉のためにひたすらそのようにするものもいるが、それらの人間よりもお前は、はるかに劣(おと)るのではないか。お前のたずさわるべき、この公共に関わる仕事は、それらと比べたら、大した価値のないものだとでも思っているのか。

 お前自身と本質的に何の関係もない、お前の心を乱すだけの想念(そうねん)は捨 て去り、平静な心を持て。自分がいつも自然の摂理(せつり)に従った発言や行動を しているのなら、他人の悪口に心を乱されるな。自分が良い発言や行動をしていると 考えるなら、自信をもってそれらを行えばよいのであって、自分を卑下(ひげ)する ことなどはやめよ。他人はそうすることが自分にとって都合が良いと思っているから そのようにしているにすぎないのである。そのような人間に気を配ることはやめて、 自分の信念と自然の摂理に従ってひたすらまっすぐ歩め。真理の道も自然の摂理に従 った道も同じものなのである。

 私は、自然に従って諸々(もろもろ)の行いをし、そして死んでいく。私が息を引 き取る場所は、父と母が私を生み育てた所である。またその場所は、私が食べてきた食物を育み、私がさんざん踏みしめてきたこの大地でもある。

 お前は才知あふれた人間などではない。しかし、それで良いのだ。それ以外の多くの良いところをお前は持っているではないか。いやそのようなものなどありませんとお前は言うことはできないし言うべきでもない。それゆえ、お前はその良いところをこの世で発揮しなければならないのだ。たとえば、純粋さ、慎み深く厳格であること、忍耐強さ、色恋におぼれないこと、天命を知っていること、親切心をもっていること、自主性があること、質素を旨とすること、不平不満を言わないこと、気高い心を持っていることなどだ。
 それなのに、自分は生来無力な人間だと卑下して、何もしないでいるのではないか。それとも不平不満を言い、強欲に身を任せ、だめな自分を恨み、人に媚(こ)びへつらい、大うそをつき、心を乱し、このように生まれたのだからしょうがないとでも言うつもりではないだろうな。
 いや違う。とうの昔にそのようなものは、克服できたはずだ。仮に非難されるとしても、お前は精神的に鈍く聡明(そうめい)ではないと言われる程度だ。しかし、それとて努力で克服できないものではない。自分がなまけものであることに安住して、そのようにあることに慣れてはならないのだ。

 人に親切にしたとき、感謝を得ようとする者がいる。あるいは、あたかもそれによ り、相手に貸しをつくったのだと考える者もいる。それに対して、そのような行為を しても何一つ見返りなどを期待しない者もいる。馬は走り、ミツバチは蜜をつくり、 ブドウの木は季節になると実を付ける。このように、人間も善い行いをしてもそれを ふれ回ることもなく、また次の行いに移っていく、そのような人間にならなければな らないのだ。
 お前は、自分は公共のために役立つ仕事をしていると思っている。またそうしてい ることを多くの人々に知ってもらわなければならないと考えているかもしれない。しかし、それは前に話した見返りを求めて人に親切にするような人間に自分をしてしまうということにつながることを忘れてはならないのだ。

 神に祈ることなどすべきではないと思うが、もし必要が生じたなら「水が必要なので雨を降らせてください」のように単純率直に行え。人は健康を望むが、たとえ病気にかかろうと損失を受けようと、各人に生じたことはすべて運命としてその人間に割り当てられたものであるのだ。この世には、ある一つの調和というものが存在し、宇宙はそれにかなうようにあらゆるものを現在あるように運命づけているのである。宇宙がそれぞれにもたらしたものなのだ。だから、われわれはたとえそれがどんなに困難なものであろうとも、それを悦(よろこ)んで受け入れなければならないのだ。自然の本性が、自らの支配するところに、個々のものについても、全体に関わるものやことがらについても、都合の悪いものや出来事など生じさせるはずがないのである。だからお前は、自分の前に生じるすべてのものや出来事に好意を持たねばならない。もしお前がそれらに不満をいだくとしたら、それはお前が宇宙の調和を破壊することになるのだということを忘れるな。

 お前が行動する時、未だ真理にかなった行いをするという習慣づけができていないなら、どんな行動も放棄(ほうき)したり、途中でやめたり、拒絶(きょぜつ)したりすることはすべきではない。その場合はたとえ失敗しようともくじけることなく根気強く行い、その行為が十中八九、人間としての名に値するほどのものならば、それでよしとしその務めを続けよ。
 また、哲学を学ぶ時はいやいやではなく、病人がその病状を和らげる薬を処方してもらう時のような気持ちで、自分にとって必要なことだと理解して行うべきである。、その時のお前は心のなかにやすらぎを見い出すであろう。
 ともかく、哲学を学ぶということは、お前の本性が求めていることであることを忘れるな。快楽をお前の本性は求めていると思うか。そうではないであろう。単なる快楽は、人間の心を破滅に導くだけのものではないか。この本性が求めていることとは、つまり精神の自由や自主、清らかさ、純朴で素直なこと、慈悲(じひ)に富み親切であることではないか。これらこそが真の快楽と言えるのではないか。

 事物の本当の姿を知ることは困難である。哲学者さえ、それを掴(つか)み取ることは難しい。たとえ把握(はあく)できたとしても、その時にはその事物は変化しているかもしれないし、われわれの精神は移り変わるものなので、一旦(いったん)掴み取った思えたことにも、また新たな疑いを持ち始めることだってあるのではないか。第一、この世の中に変化しないものなど自分を含めて何もないであろう。
 このような世界の中でわれわれは何を対象として、また何を目的として努力し生きていくべきなのか。だからといって、もういいといってあきらめて時間の経過だけを待つのか。いや違う。宇宙の本性によらなければ何一つ自分には生じないこと、神や神霊(しんれい)に反しては何一つ行えないことをまず悟れ。

 自分が行動する時、どんなものが自分の心を支配しているか考えよ。青二才、暴君、家畜や野獣が持つような心ではあるまいな。

 知恵、健全な思慮、正義、勇気など、世の人々が良いとみなすものは人間にとって重要なものである。しかし、ただ単にそれらを量だけ多く持てばいいというものではないであろう。それらがもし、名声や富のための手段であるならば、多く手に入れたがゆえに邪魔(じゃま)となり、かえって身動きができなくなることがあることも忘れてはならない。

 私が死んでも、その魂や肉体が無になることはない。なぜなら、それらは決して無から生じたものではないからだ。私の魂や肉体は、もともとこの宇宙の別のものに組み込まれていたもので、それが素材となって生じたものだ。私が死ぬということは、それがまた違うものに組み込まれ、新たなものが誕生するということだ。ただそのものも、やがては滅び、また別のところに組み込まれていくであろう。そしてそれは果てしなく永遠に続いていくのである。
 私もそのようにして誕生したのであり、また私を産んでくれた両親も同じことである。未来が永遠であるように、過去にさかのぼっても限りはない。いや限られた周期があり、繰り返されるだけだとしても、その繰り返しもまた永遠なのである。

 理性とは、その発動も働きも自己完結したものと考える。つまり、理性は必要とされた時にそれ自身により発動し、その進む方向もその目的も理性自身の中に組み込まれているのである。したがって理性により行動するということは、それだけで、無条件に正しい行為なのである。

 普遍的な意味における人間の本質に帰属(きぞく)しない個人的な事柄に特別に注目するな。それらは、人間に対して要求されるものではない。そこには、人間としての目標、その目標を達成させるうえでの核心的要素などに関わるものは何も存在しない。そのような態度を可能な限り貫くことが良い人間となる道である。

 お前の精神は、お前がいだく想念と同じ性質のものとなっていくのだ。それゆえにお前の想念を、たえずお前を創造したものに向かわせよ。なぜなら、そこには究極(きゅうきょく)の目標があり、そしてその目標のあるところに善と利益があるからだ。  さて、理性的動物の善とは公共性にあるのである。公共性を発揮するためにわれわれは生まれ出たことに間違いないのだ。生あるものは、生なきものにまさり、理性あるものは、生あるものにまさるのである。

 不可能な事を追い求めるな。人間には、その人間が本性上耐えられないようなことは決して生じない。もし、ある人に自分にはとても耐えがたいようなことが起こっていて、それにもかかわらず彼が全く動じていないとするなら、彼はただその事実を知らないか、心の大きさを誇示(こじ)しているかだけのことである。単に、無知と虚栄(きょえい)がもたらしているだけで、それはある意味ではひじょうにおぞましいことなのである。

 事物そのものが人の心に直接侵入し、それを動かしたりその向きを変えたりすることは絶対に起こり得ない。人の心は独力で自分の向きを変え、逆に外界の事物を自分にふさわしいものに合わせていくものなのである。

 人には親切にしなければならない。また他者がもたらす耐えがたいことにもできうる限り耐えねばならない。なぜなら、人はわれわれにとって最も有機的に関係が深いからである。しかし、人々の中には私の仕事の邪魔をする者もいる。その時、ある程度の活動をわれわれは、阻害されるかも知れない。ただ、われわれはそれを自分にとって何の関係のないものにすることができるのだ。なぜなら、自分がそれらを遠ざければよいし、あるいはそれらから自分の身をかわせばよいからだ。そうすれば、自分の心のあり方にまで影響を受けるようなことは起らないのだ。
 いや、自分の働きかけによってそのものの方向を変えさせ、自分の仕事に役立つものにすることだってできるのだ。立ちはだかるものを、自分の仕事を促進させるものにすることができるのだ。

 この宇宙にあって最も力があり優れたものを崇(あが)めよ。それは、万物を使役しそしてそれを制御するものである。同時に自分の内にある最も力のあるすぐれたものを尊敬せよ。その内なるすぐれたものは、実は前者の宇宙を使役、制御するものと同類なものなのである。なぜなら、その前者のものが後者のお前のうちなるものを指しずして働かせているからである。

 国家に対して害を与えないものは、国民にも害を与えないし、私にも害を与えない。しかし、国家に害を与える者がいたとしたら、それに対しては怒り、そしてその誤りを彼に諭(さと)すべきである。

 今存在するもの、生まれつつあるものを見よ。なんと早い速度で変化し、消え去っていくのであろうか。まるで流れる川のようだ。不断に続いてはいるが、永続的に変化している。一つとして不動なものはない。すべてのものは、未来という中に消滅していくのである。そんな中で、身をかきむしり地団駄(じたんだ)を踏み、不平不満の限りを口に出して言うものがいるならなんと愚かなことであろうか。
 お前には、全体のほんの取るに足らない一部しか与えられていないのだ。瞬(またた)く間に過ぎさるわずかな時間、宇宙全体からすればほんの一部の物質。ほんとうにお前という人間はささいなものに過ぎないものだということを悟(さと)れ。そして、同時にこの広大な世界全体の運命たるものに思いをめぐらせよ。

 他人が何か非道(ひどう)なことをお前にしでかしたとでも言うのか。それは彼の問題であり、その人間の気質と行動によるもので、彼なりの考えがあってのことだ。一方、お前は万物がもつ普遍的本性が自分に命じていることをなしているだけのはずだ。それでいいではないか。

 お前の精神がお前の肉体的な要因で生ずるものに捻(ね)じ曲げられてはならない。肉体を原因として生ずるものは、できる限り最少に抑え込んでおかなければならない。ただ、その肉体的なものでも、普遍的本性と一体化していると判断されるものである場合は、それは自然のものであるがゆえに、それに対し勝手に善悪の判断を下してはならない。

 自分の魂が天から与えられるものに満足し、宇宙の分身である自分に課せられた使命、つまり理性に従って事をなし、また、世の人々にそのことを知らせ示すことができるなら、お前は神々とともに生きるものとなれるのだ。

 お前は体臭や口臭のある人間に憤慨することはないはずだ。そのことは彼らにとってどうしようもないことで、お前に対してどうすることもできないことだからである。人は自分が犯している過ちに気づく力があるはずだという人がいる。それならそれに従えばいいではないか。もし他者が過ちを犯しているなら、憤慨することなく、順序よく諭(さと)していくことだ。彼に力を貸して、その誤りを正していけばいいのだ。なにゆえ、彼に対して憤(いきどお)らなければならないのだ。

 死んであの世にいったらどのように暮らそうかと思案(しあん)しているのではないだろうな。そのようなことに気を取られるくらいなら、この世においてその考えどおりの生き方をすればよい。それがいやなら、いさぎよくこの世を去れ。やれ、人に邪魔(じゃま)されたからそれができなくなったというような態度はとるべきではない。よく考えてみよ。お前の欲することを為すにあたり、それを妨げるものなどあるのか。理性を持ち公共のために本性に従って行動するところに障害などあるはずはないではないか。

 宇宙の理性は、より劣ったものをより優れたもののためにつくり、優れたものどうしは互いによく適合しあうように調整したのである。それがこの世における縦の秩序であり、また横の秩序となっているのである。
 お前は今日まで、神々・両親・兄弟・妻・子どもら・教師・友人・しもべにどのような態度をとってきたのか。不法な言葉づかい、態度をとってきてはいないだろうな。さらに、お前は今まで、どのような経験をし、どのようなことに耐えるだけの力を持ってきたことがあるのかを思い起こしてみよ。また、今までに、どれほどの美しいものを見てきたか、どれほど多くの快苦を嫌ってきたか、人から褒(ほ)められることを無視してきたか、恩を忘れるような人間にも善意をもって接してきたかを考えてみよ。
 技と知を持つ魂とはどんなものか。それは万有の始まりと終わりを知り、全存在を貫いて存在し、一定の周期をもって永遠にわたり万物を統率(とうそつ)する理性を認識した魂なのである。
 やがて、お前は、灰になり、名前が残るか、またはその名すら消え去るのだ。名など、音でありこだまであるに過ぎない。この世で尊重されるということも、一皮むけば中身のない空しいものである。じゃれ合ってかみ合う犬ころのさわぎに過ぎない。ともかく、死は消滅であり、この岸からあの岸への移動である。心静かにそれを待つだけなのだ。それまでは、神々を崇め、人間には親切にし、何事にも耐えるのだ。肉体や呼吸はお前のものではないのだ。お前の力の及ばないものであることを心に銘記(めいき)せよ。

 お前が良い道を選び、しっかりとした行動をするなら、何ら障害のない流れるような人生を歩むことができるはずだ。自分以外のものにより妨害されることなどありえないのだ。正しい心と正しい行為の中に身を置き、そこにお前のあらゆる欲望を閉じ込めておくことが大事だ。

 もしある出来事が自分の不徳が原因でなく、かつ公共に害を与えるものでなければ、それに対して何も思い煩(わずら)う必要はない。幸福な人間とは良い心の傾向や良い欲求を自分自身に与える者なのである。

 万物の素材は素直であり、どのようにでもなる。また、それを統御する理性もその中に悪い部分を持たない。理性に邪心(じゃしん)はなく、何かに危害を加えることもないし、それにより何かが損(そこ)なわれることもない。すべてはその善き理性により生じ、事が成し遂げられるのである。
 お前が何かをなす時、その身が寒さに凍(こご)えているか、暖かいか、十分寝たか、寝足りないか、人から良く言われているか、悪く言われているか、死期がせまっているか、まだ先なのかなどに心を煩(わずら)わされるな。死といえども自分の人生の中における出来事の一つであるなら、その際(きわ)にあっても今自分がしなければならないことを行えばよいだけのことである。

 事物の内面をいつも奥底まで注視(ちゅうし)せよ。お前の心の目でその固有の性質と価値を見抜け。すべてのものは迅速(じんそく)に変化し、より次元の高いものに姿を変えるかあるいは雲散霧消(うんさんむしょう)して去っていくだけなのだ。

 宇宙を統御する理性は、自分がいかなる状態であるか、また、何を材料にして、何をなすべきかを知っているのだ。

 悪に対する最良の対処(たいしょ)方法はそれらに同化(どうか)しないことである。

 神に対する想いをいつもいだき、国家公共のために絶えず行動せよ。そしてそのことにより悦びを見い出し、心に安らぎを得よ。

 自分を統制するものとは、自分を目覚めさせ、進むべき方向を定め、自分を形作り、すべての出来事を自分の望み通りの姿にして目の前に出現させてくれるものである。

 この世のすべてのものは、そのものが生まれたと同時に与えられた自然の本性に従っているのである。

 この世は、何の秩序もない単なるものの集まりであるのか、または秩序やある摂理(せつり)のもとに統一されたものであるのか。もし前者なら、そのような無意味とも思える世界に何故私は恋々(れんれん)として生きようとするのであろうか。私は、いったい何に意味や関心を求めるというのか。なぜ、わが心をここまで乱す必要があるのか。自分が何をしようとも消え去る時は容赦(ようしゃ)なくやってくるだけなのだ。
 一方後者なら、私は神を敬い、しっかりとした不動の態度をもって、この宇宙を統御するものを信頼して、心中に少しのくもりもなく、何ものにも臆病(おくびょう)になることなく生きていけばよいのだ。
 お前の心がお前を取り巻くものたちによって混乱させられている時には、必要以上にそれらの中にいすわることをやめ、お前の中にある本来の秩序ある自然の調和の場所に戻れ。

 もし、お前に義理の母と生みの母がいるなら、義理の母に仕えながら生みの母のもとに絶えず帰っていくであろう。お前にとって義理の母とは宮廷生活であり生みの母とは哲学なのだ。哲学のもとに帰って、そこで休息せよ。心が帰るところがあってこそお前は、宮廷でのことも辛抱(しんぼう)でき、良き人間性を保つこともできるのだ。

 肉を食べる時、それは生きていた動物の死体であるということ、ワインはブドウの果汁で衣服は動物の皮膚で、性の交わりは性器の摩擦(まさつ)と痙攣(まひ)と粘液(ねんえき)の射出(いしゅつ)であるということをそれぞれ頭に思い描け。これらの想いというのは、事物の核心を刺し貫き、物事の正体を見とどけているということである。人生全般のことにおいても同じことである。たとえば、あまりにもよくできすぎているものに出会ったら、それらを裸にして、その低劣(ていれつ)さを見抜く力を持ち、正体をあばけ。おごりたかぶる心とは、人を詭弁(きべん)でたぶらかす恐ろしいものであることを悟れ。今、自分は人生において重要な時にあると思う時には、よくそのようなものにだまされていることがあることも承知しておけ。

 一般の人間はものをあがめる。多少気の利いた人間は、ある種の技術や熟練(じゅくれん)をあがめる。しかし、真にあがめるべきものは、国家公共を大切にするような理性であるのではないか。まずはそのような心を善いものとして育てるとともに、そのような心を持つ者と協力し合え。

 宇宙において今も、あるものは生成しようとし、またあるものはその存在を終えようとしている。生まれつつあるものの中には早くも消え去ろうとしているものもある。このような流動と変化は永遠に続いて、この宇宙はたえず新しくなっていく。そのような中で流れ過ぎゆくものを尊(とうと)いものだとして惜しんでいったい何の意味があるというのか。流れいくものの上には立つことはできない。また、かわいい雀が目の前を飛び去るのを見て、もっと見ていたいと思っても、それはかなわないことである。人間の人生もこれと変わりはしないのだ。死などは、生まれた時に持った呼吸作用を日々吸い込んでは吐き出した大気の中に返すだけのことである。

 呼吸できること、食物を消化してエネルギーを生み出すこと、ものを見て認識できることが賞賛されることなのか。単なる取り込んで排泄するだけのことで尊ばれるようなものではない。
 では、何が尊ばれることなのか考えて見よ。拍手喝采(かっさい)されることなのか。お前は人に尊ばれるために生きているのか。そこに何の意味があるのか。大事なことは、自分自身の振る舞いを自己本来の成り立ちに従って行うことである。なぜなら、技術の目指すところは、つくりあげたものがちゃんとその作成意図のとおりにその機能を果たすことである。庭師もブドウを栽培する人も犬の調教師も皆、求めるところはそこであり決して変わることはない。だからお前は自己の成り立ちに従ってその行為をなし、その役割を果たせばよいのである。それ以外お前に何が求められるというのか。自足し、自分の関わりの外にあることに対しては不動の境地であればいいのだ。

 元素の運動は上下左右であるが、徳の動きは神的なものであり、人知によって測り知ることはできない道を歩むものである。

 人は自分と同時代に生きる人々のことを褒(ほ)めようとはしない。一方、自分が見たこともなく、また見るであろうこともない将来の人々から褒められることを大事なこととみなしている。なんと愚かなことなのか。過去の人々が現在のお前を賞賛することができないことを悲しむ愚かさと似(に)ている。

 自分がとてもできそうにないからといって、人間の力ではできないことだとは考えるな。むしろ、人間にとって可能なことはお前にとってもできることなのであると考えよ。

 格闘の練習や試合では相手に打撃を与え、あるいは打撃を受け、頭突きをくらわし、くらわされるが、だからといって相手を悪だくみしているのではないかと疑うことも恨むことなどもない。相手から自分の身を守ろうとするのは当然のことだが、相手を敵視して憎むことなど決してない。明朗な気持ちをもって、その攻撃から身をかわすだけである。
 人生においてもこれと同じであらねばならない。人々のすることに黙って目をつぶろうではないか。疑いの念をいだかないこと、身をかわすことが大事だ。相手を嫌って近寄らせないような振る舞いなどはしてはならないのである。

 私の正しくない所を指摘しそれを証明しうる者がいれば、喜んで私はその指摘に従って正しくない所を改める。なぜなら、私は真理を求めているのであって、未だ真理によって損なわれた人間など一人もいないことを知っているからだ。むしろ、自分をだましたり、無知であることこそが自分をダメにしてしまうことなのである。

 私は本来の自分の務めを果たせば良いのであって、それ以外のことで心を煩(わずら)わされる必要などない。

 お前は、理性のない動物や理性を欠いている事物には、それらにふさわしい、広い心で接するべきだ。一方、理性を持つ人間に対しては、相手も同じ理性を持つ同胞として接する必要がある。事に当たっては、いつまでそれをやり続けなければならいかなどということを考えて心乱すな。どんなことでもなし続ければ、それはすみやかに終わることなのである。

 王であろうと奴隷であろうと死ねば、同じように原子として霧散する。
 生きている間にどれだけ多くの事がこの自分の心身に起きているか考えてみよ。そうすれば、この宇宙全体ではどれだけ多くのことが生起し存在しているかが分かるであろう。

 ある人がお前の名前のつづりを教えてくれと言ったら一つ一つ丁寧に教えるか。もし相手が、その教え方では分からないと言って怒ったらお前も怒り返すのか。いやそれでもお前は一つ一つ丁寧に示していくのだ。そのように、この世にあってお前のなすべきことは定まっているはずだ。ともかく、それを心乱されることなく、怒らず、理性に則(のっと)って行うことだ。

 人々が自分たちに有益だと思うものを追い求めることは、当然許されることだ。とはいえ、彼らがそのことで過ちを犯しているとしたら、それに対してお前は怒りを覚えることもあるであろう。しかし、怒る必要などないのだ。なぜなら、彼らはその行為は自分たちにとって当然正しいもの、有益なものと誤解しているだけのことであるからだ。そうであるなら、お前は、彼らにその行為が過ちであることを教え示せばよいのである。そのようなことでお前の心を悩ませるな。

 死とは、理性・魂のはたらき、肉体に対する配慮や面倒をみることの停止である。

 もし、お前の肉体が滅びる前に魂の活動が力尽きるとしたら、それは恥ずべきことである。

 心の底まで「皇帝」に染まりきるな。気をつけなければ、それはお前にも起こりうることだ。常に、単純素朴にして善良で汚れなく慎み深くうそや飾(かざ)り気のない心であれ。いつも正義を友とし神を敬い、心に笑みを忘れず親愛に満ちた心持ちでおのれの義務に忠実な者であれ。哲学で学んだ生き方ができるような人間であれ。神をおそれ敬い人々の安全を計(はか)れ。人生は短い。この地上の生の成果は、敬虔(けいけん)な心構えと公共を想う行為にあるのだ。
 理法に従う強い心、いついかなる時においても平静である心、人を敬う心、明るい表情、温和な心、名声にとらわれぬ心、真実を探求しようとする心を持て。また、物事を事前に徹底的に観察し考慮したうえで行うこと。また、たとえ自分に対して不正な中傷を受けようとも耐えること、何事にも深追いなどすることなく、人からの非難にもとりあわず、その一方で人々の人柄と行動はしっかりと把握しようとすることが大事だ。人を非難するな。臆病(おくびょう)で疑い深い人間になるな。住まい・食事・衣服など身の回りのことはわずかなもので満足し、骨身惜しまず辛抱(しんぼう)強い人間であれ。簡素な食事で規則正しい生活をせよ。また友情を大事にし、自分に対していつも反対する人々も嫌うことなく受け入れ、自分より優れたものを示す者がいれば、素直にそれを悦び、かつ迷信などにとらわれない敬虔な態度を貫け。

 心を澄ましてもう一度自分をふりかえってしてみよ。すると今まで自分を悩ましてきたものは夢にすぎないことが分かるのではないか。そして、再び目覚めるのだ。
 私は、ちっぽけな肉体と魂からできている。肉体は、この世の事物に対して何の影響を与えることはできない。肉体の力は限られている。しかし、精神は違う。精神は、その精神活動の範囲外にあるものは別にしても、その活動の範囲内にあるものは、その精神の力によっていかにでも変えることができるものである。もちろんそれは現在のものに対してであり、過去と未来に対しては影響を与えることはできない。

 自分の手や足に対して負担させられる労苦は、それが本来負担させられるべきものであるのならば、それは自然に反しているものではない。それと同様に人間そのものに対する労苦もそれがその人にとって本来かくあるべきと判断されるものなら、当然受けいれられるべきものである。自然に反しないものがこの世において悪いものであるはずがない。

 快楽をひたすら追い求め楽しんだところで、この短い一生でどれほどのことが楽しめるというのだ。

 職人は自分が持っている技術を手放すことなどは我慢ならないであろう。しかし、人間が持つ理性を尊重するより以上にその技術を大切にしようとするなら、それは恐ろしくおぞましい事である。

 アジアもヨーロッパも地球の一角であり、この地球も宇宙全体からみれば一滴のしずくにも過ぎない。現在というお前の生も永遠の時の流れからすれば消滅する一瞬のことにも過ぎない。ほんのちっぽけな移ろいやすく、消え去っていくものなのだ。ただ、現在を見ている者は、過去から未来までのすべてのものを見ているとも言えないわけではない。なぜなら、万物はどこにおいても、いつの時代においても同類、同質だからである。

 この宇宙にある万物のつながりと関係に想いをめぐらせよ。万物はすべて関連し合っていることが分かるはずだ。それらの各々の動き、順序正しくさ、協調し合うあり方などからすべては同胞の関係にあることが分かる。

 天から与えられた事物に、お前を調和させよ。また宿命によりともに生きることとなった人々に対しては愛情を寄せよ。

 器具・道具・容器は、その役割を果たす限りで満足でき、結構なものなのである。ただし、それらに作成者といえる者は存在しない。しかし、自然により組成されたものには、それをつくりあげた力がそれらに内在しているのだ。
 そうであるならば、お前はその力を尊敬すべきである。そしてその力の意図するところにかなった生活態度をとればいい。そうすれば、万事はお前の思いのままになるはずだ。

 お前が何が良くて、何が悪いと考えるかはとりあえず置こう。もし、お前の努力の及ばないことで、お前にとって悪いことが生じたり、逆に良いことを取りこぼしたとしたならば、そのことで、お前が神々をののしり、その原因をつくった人々を憎悪するとしても、それはやむを得ないことだと思いもする。しかし、もしお前がお前の力でどうにかすることができることで、そのようなことが生じたならば、そういう態度を取ることは決して許されることではない。

 われわれすべての者は、それを意識するかしないかは別にして、ある一つの目的の実現に向けて協同しているのである。その協同とは人それぞれその仕方で、またその役割でもって行われているのである。宇宙の出来事に罵詈雑言(ばりぞうごん)を唱える者も、反逆してそれを破棄しようとする者でさえ、実はそれに協調する結果となっているのである。宇宙にとっては、彼らも必要な存在なのである。  それゆえ、お前は自分をどこの立場において協力するのかを、はっきりと認識しておかねばならない。お前は、宇宙を統括するものにとって重要な力量のある協同者にならなければならないのだ。宇宙にとって、嘲笑(ちょうしょう)に値するような安っぽい喜劇の一員になってはならないのだ。

 太陽も雨も各々その役割は異なるものであるが、一つの目的に向かって協力している。星々もその一つ一つは異なるものであるが、ある統一した秩序のもとにある。

 神々は、お前に対してもいろいろと配慮をされているに違いない。配慮しない神がいるなど私には考えられないからだ。
 なにゆえ神々が私に対して酷なことをする必要があるのか。そのようなことをして私を苦しめても、それが神々にとってまた宇宙にとって何の意味があるというのか。
 もし、仮に私に対しては配慮がなされていないとしても、宇宙全体については万全の配慮をなされていることは間違いないことである。だから宇宙に生起したものはすべて必然の定めに従ったものである。それゆえに、私は当然、それらに対して満足と愛情の念を持つべきなのだ。
 もし、仮に神々が何も配慮していないとするなら、まあそれなら神々に対するすべての祈り・儀式などの行為はやめるべきだと思うが、お前は自分自身で自分の行為を配慮することができるのだから、自分自身のためになることだけを行えばいいのである。お前にはそれだけの力があるはずだ。
 当然お前がなすべき行いとは、お前の場合は自分自身だけでなく、すべての人のためになることであり、国家に関わることであるはずだ。
 それは一個のお前としてはローマのためであり、人間のお前としては宇宙のためである。つまり公共に有益なことを行えばよいのである。そしてお前の場合、それが自分にとっても良きものとなるのである。

 そもそも各人の身に起こることはすべて全体のためになることなのである。それが分かれば、一人の人間のためになることは、他の人々のためにもなるということに気づくはずだ。ただ、このためになるという意味は、善悪どちらでもない中間的なものも含んでいることを忘れるな。

 円形闘技場で演ぜられるものは、同じことの繰り返しでお前にとっては退屈きわまりないものになっているであろう。人生も多かれ少なかれこれと変わらないものかもしれない。万物は時の流れに身を委ねてはいるが、新しいものなど何もなく、同じ根源から成り立っているのである。このようなことは一体今後いつまで続くのであろうか。

 過去の多くの人間の営みに想いをめぐらせよ。傑出(けっしゅつ)した雄弁家、荘重(そうちょう)たる哲学者、多くの英雄、将軍、国王、自分の才知に自信をもっていた人、あるいははかない生をかげろうのように過ごした人、悪ふざけのような生き方をした人間、そこには計り知れないドラマがあったであろう。しかし、彼らのすべては今、地下において永遠の眠りについている。それが一体何なのか。それなら、生きるうえにおいて大事なこととは何か。それは、誠実でかつ正義を愛し、嘘つきや不正の輩(やから)にも好意を持つことを惜(お)しまず暮らしていくことではないか。

 楽しく生きようとするなら、ともに生活する人々の長所を見よ。あの人にはこんな、また違う人にはこんないいところがあるというように。それらの人々の徳ほど私の心を和ませてくれるものはないはずだ。それらから目を離すことなく、常に心にとどめておくべきである。

 お前は自分の体重がある値に満たないからといって不機嫌になることはあるまい。また、自分が生きる歳月がある期間以上でないからといって同様に機嫌が悪くなることもないだろう。今、お前は天から与えられた物質に満足しているはずだ。生かされるであろう時間の長さについても同じような態度を取るべきである。

 正義の道と自分が判断するならば、もし他人がそれを承知しないならまず、彼らを説得せよ。そして、それでも彼らが承知しないとしたら、その時でもそれが正しい道だとお前が考えるなら、実行に移せ。しかし、それに対して暴力で立ちはだかる者があれば、自分の身をひるがえし、その相手の力を別の徳のために利用せよ。お前に不可能なことをせよなどとは望んではいない。お前は今までそのようにしてすべてのことを実現させてきたのではないのか。

 名声にこだわる者は、自分を幸福にしてくれる他人の行動ばかり考え、快楽に執着するものは自分の感覚のことばかりを考える。それに対して、理性を持つ者は、自分の行動についてまずしっかりと考える。

 事物に対してわれわれは心悩ますことなしに済ませることができる。なぜなら事物には、われわれの心を悩ませようとする意図などないからだ。

 自分に対する他人の言葉に注意深く耳を傾け、そしてその人の心中に自分の身を置いて、その人の気持ちになって考える習慣を身に付けよ。

 一群のミツバチのためにならないものは、一匹のミツバチのためにもならないことを悟れ。

 船員や病人にとって船長や医者は自分たちをどのようにして安全に航海させるかまた、健康にしてくれるのかだけが関心事なのである。

 考えてみたら私と同じころこの世に生を受けたものがもはやどれぐらい死んでしまったであろうか。

 なぜお前は怒りに身を任せるのか。怒りとは病気がその人間に、怪我がその人間に与える影響以上の悪いものをその人間にもたらすことを忘れるな。

 お前が自分の理性に従って生きるのを妨げる人間などいない。また、お前の身に自然の理性に逆らって起こることなど何もないのだ。

 人に気に入られたいと考える人物とはどんな人間か。また何を求めてそうしようと思うのかを考えてみよ。時は多くのものをすでに消滅させてきたし、今後もいかに多くのものを消し去っていくことであろうか。

 善とは何か、悪とは何か、それをお前は今までに何度も見てきたはずである。今ここに生まれ出るすべてのことは、お前が繰り返し、繰り返し見てきたものなのだということを絶えず念頭(ねんとう)に置け。頭上、足元、どこを見ても見えるものは、過去から変わらぬ同じものだけだ。その同じものによって歴史はつくりあげられてきたのだ。現在のすべての都市や家それ自体は束の間のものではあっても、その本質は過去から変わらぬものにより満たされているのである。一つとして新しいものなどないのだ。
 この世界の原則は昔も今も変わってなどいない。その原則は消え去ることなどない。しかし、その原則にどのように関わり、それをどのように活かしていくかは全くお前の自由である。

 何事に対しても、私はある見解をもつことができる。もし、持てないようなことがあるとしても何らうろたえる必要などない。自分の精神の外部にあるものなど、自分とは何の関係もないものだからだ。
 このことをしっかりと胸に受けとめれば、毅然(きぜん)とした態度でいられるはずだ。そのような目で眺(なが)めればすべてはまた違った新たなものとして見えてくるはずだ。

 水槽(すいそう)に泳ぐ魚たちは、そこに投げ込まれた一片の餌に我先にと群がる。それと対して変わらないこの人間世界において、お前は決して優しさを失わず、尊大(そんだい)にふるまうことなどないようにせよ。人間の価値はその人が目指し、精進(しょうじん)しようとする努力の目標によって決まるのだ。

 言葉が交わされる時はいつもその言葉が意味するものを考え、行動する時は絶えずその行為の目的が何であるかを意識せよ。

 私に与えられた力が十分なものなら、私はそれを使って私自身で公共のための仕事をする。しかし、その力が不十分なものだとしたら、今の仕事を他者にゆだねるか、または優秀な助手を雇い、その手助けを受けながら、自分のできる限りの努力をしてその仕事に励む。
 ともかく、自力にせよ、他人の助力を借りるにせよ、私が行うことは世の中に役立つことでなければならないのは確かだ。

 かつて世の中で賛美の的であった多くの人がすでに忘れ去られ、また彼らを賛美した人々さえ、とうの昔にこの世を去っている。

 人から助けを受けることを恥じるな。どんな形であるにせよ、お前には課せられた任務を果たす必要があるからだ。たまたま、お前が力不足でそれができない時、他人の助けを借りればできるならその助けを頼りしないことが良い事なのか。

 未来のことに心を煩(わずら)わせるな。その時になれば、今お前が処理できているように、同じくその力でそれらに対応できるに違いないのだ。

 この世界のすべてのものは、何らかのかたちでつながっているのだ。何一つ孤立無縁(こりつむえん)なものはない。なぜなら、すべてのものは、この唯一の世界をつくりあげているものだからだ。この世界は一つであり、それは万物により構成され、神は唯一で、その中のすべてのものを貫き、素材も法も理性も真理もすべて一つなのである。

 あらゆるものは、それが生み出された根源の中に戻りそして消滅する。すべての原因や記憶も同様にその源である万有(ばんゆう)の理性の中に立ち戻り、消滅していく。

 われわれ理性あるものにとって、自然にかなうということと理性にかなうということは同じことである。自力で立つか、人の力で立たせてもらうかの違いだけである。

 手足がお前の一部であるように、お前も理性あるものの一つとして他と協調するようにつくられたものである。
 お前は、この宇宙の本性の手足そのものなのなのである。もし、自分は宇宙の本性の単なる付属物に過ぎないなどと思っているのなら、人に対し善行を行う時、真の喜びを感じることなどできない。単に義務として行っているだけだ。しかし、その手足を担(にな)っていると思うなら、それを行うことに悦びを感じるはずだ。

 自分に外の世界からやってくるものがあって、そしてそれが自分のところにやってきてほしいものであれば、何であってもそれを拒(こば)んではならない。それらのもののうちでもし自分に対して良くないものがあったとしたら、それに対してだけ、それは良くないものだと言えばすむだけのことだからだ。
 しかし、私は実際に自分の身にふりかかってきたことは、たとえどのようなものであっても悪いものだとは思わない。なぜなら、未だに何一つとしてそれらのもののうちで私に害を与えたものなどないことを知っているからだ。そして私はそれらを悪いものだと考えないようにすることはいつだってできることなのだ。

 他人が私に対して何をしようとまた何を言おうと、私は常に良き人間でなければならない。たとえば、エメラルドという宝石は、人が何をし、何を言おうと輝き続けることに変わりはない。

 自分の理性が自分自身を苦しめることなど決してない。たとえば、お前を恐怖におののかせたり、何らかの欲望に駆り立てることなどない。もし仮に、他人がお前の理性に恐怖や苦痛を与えるようなことをするとしても、そのままにさせておけばよい。理性そのものは、対象を醒(さ)めた目で洞察(どうさつ)し、事態に冷静に対処するものである。理性が、本来の道をはずれることなどないからである。
 ただ、肉体については、そのようにはいかないので、絶えずひどい目にあわないよう注意しなければならない。しかし、精神は違う。自分から意図的なものを持ち出さない限り、精神が混乱することなどないのだ。自分が自分に障害を与えないかぎり、何ら心配する必要はないのである。精神は外部からやってくるものからは全く自由なのである。

 お前は変化を恐れるのか。変化なくして何が生まれるというのか。この世に変化なくして成し遂げられるものなどあるのか。薪(まき)が燃えて変化しないとしたら風呂に入れるのか。食物が変化しなければ、われわれは栄養が摂(と)れるのか。すべて変化が必要なのだ。当然、お前も変化していく。あたりまえのことではないか。

   万物は、われわれの身体の各部分と同じように、相互に関わり合いながら、作用しあい生成において宇宙全体と一体となっているのである。
 永遠の時は今までどれほど多くの人々や事物を飲み込んできたのだろうか。このことを肝に銘ぜよ。

 私の不安は、自分が人間としての本来するべきでない行動をしてしまうのではないかということである。また人間としての本質が今、すべきでないとされる行動をしているのではないかということである。

 身近にある大事なことを人間は忘れがちなものであることを心せよ。

 過ちを犯す人間をも愛せるのは人間だけである。もし、愛せないとしたら次のことを思い起こせ。彼らは無知が原因で過ちを犯しているということ。彼らもお前と同じようにこの世に生を受けた尊い人間であるということ。彼らもお前も遠からず死んでいく者であるということ。彼らは、決してお前を悪に導いたのではない。ゆえにお前に何ら害などもたらしてはいないことを。

 自然の本性は馬をつくり、同じ材料で樹木をつくり、今度はそれを溶かして人間を作った。そのようにして、万物を生成してきたのである。そして、それらのすべてのものは、ほんのわずかの期間この世に存在したにすぎない。あるものが壊されるということは、新たなものがつくられるということで、何ら恐れることではない。

 怨恨(えんこん)や怒りなどでゆがんだ顔は自然に反していて実に醜(みにく)いものである。そして繰り返しそのような顔をしていれば、その人間の容貌(ようぼう)すべてが、二度と元に戻らないほど醜(みにく)いものになってしまうのだ。

 まさしく、それは自然に反することであり、もし、過っているということに気づかなくなったら、その人間は生きる価値など失ってしまうことになるのだ。

 自然の本性は、宇宙の永遠の若さを保つため、お前の目にしているものを使っては絶えず新しいものに作り変えているのだ。

 他人がお前に対して過ちを犯した場合には、まず彼は何を善、何を悪と思って過ちを犯したのかを考えてみよ。この点を考えてみたら、相手に同情して、いぶかることも怒ることもないであろう。
 まず、お前も彼と同じように、本質的に変わらない善悪の観念を持っているのなら彼を許してやらなければならない。またもし、そのような善悪の観念をお前はもはや持っていないというなら、彼の誤りに温かく好意をもって接してやらなければならないのである。

 在りもしないものを在ったらよいのにと考えるのはやめよ。現在あるものの中の良いものがなくなった場合のことを考えてみよ。そしたら、お前は血眼(ちまなこ)になってそれらのものを探し求めるのではないか。
 ただし、それらを最高のものとしてしまい、それを失ったら心乱してしまうことがないように心することは重要なことである。

 お前は自分のうちなる理性に従い、正しい行いをせよ。そして、そのことにより心が平安であるならそれで良しとせよ。

 外のものによって動かされるような、操(あやつ)り人形になるな。今この時に目を向け、自分や人々に対して起こる出来事をしっかりと認識せよ。自分の最後の時のことについて考えてみよ。ひとの犯した過ちなどは、生じた場所にそのままにしておけ。

 人の言葉をいいかげんな気持ちで聞かず、それにいつも意識を集中させよ。ある主体がある行為をする時、その主体と行為の両方の核心にまでお前の精神しっかりと向けよ。

 素朴で純粋な心であれ。自己を恥じる心を持て。美徳とも悪徳とも言えないものに関心を向けるな。これらに注意して、ともかく自分を磨(みが)け。人類を愛し、神に従え。

 いろいろな色をしたもの、甘いもの苦いものなど雑多に存在しているように見えるが実はそこにあるのは元素だけなのだ。

 もし、この世に存在するものが原子だけであるなら、死とはその原子が散らばることであり、この世界に一体化した何かがあるなら、死とは移り変わることなのだ。

 苦痛は人をまいらせてダメにしてしまうものだ。しかし、苦痛が持続しているにも関わらず、それに耐えているということは、苦痛に対して耐える力を持っているということなのだ。
 人間の精神はそれらの苦痛からうまく退くことにより、自己の平静を実現し、自分の理性が傷つけられることをうまく防ぐのだ。それに対し、肉体に対する苦痛は、どんなものかを自分で把握することが必要である。

 名声について考えてみよ。人をほめそやす連中の精神の正体とはいかなるものであるかを見抜け。堆積(たいせき)物は積もるごとに以前に積まれたものを隠していく。人の世にあっても同じで、前のものは後のものによって隠されることの非情さを悟るのだ。

 国を治める者は、たとえ人に親切にしても悪く言われるものである。

 顔は、その人の心のありようによって形作られる。そしてその心とは自分自身で作り上げるものではないか。もしそうすることができないとしたらそれは恥ずかしいことである。

 事物に対して怒るべきではない。事物に対して怒ることに何の意味があるというのか。

 お前は、神にそして他者に喜びを与えるような人間であってほしい。

 実った稲穂(いなほ)を刈り取るようにお前の人生の実りを刈り取れ。

 もし、お前とお前の二人の息子が神々から見放されたとしても、それは理由のあることだ。

 善と正義はお前の味方であるはずだ。

 人と一緒になって嘆き悲しむようなことはするな。

 お前はある行動を行う時、真っ先に自分の身の危険や死を考えるようなことであってはならない。まず、自分は今正しいことをしているか、不正をしてはいないかだけを考えよ。また自分の行いは善人がすることか悪人がすることかをいつも考えよ。

 自分の意志であろうとあるいは他者の命令であろうと、自分が最善であると考えてそのことをしているなら、たとえ危険があっても毅然(きぜん)としてそれに立ち向かうべきである。自分命がながらえるかどうかなどは問題外のことである。

 人間ただ長く、ともかく生きていればよいというものではない。いたずらに命に恋々(れんれん)とすべきではない。いつ死ぬかなどの運命は神に任せておけばいいのだ。ただひたすら、生きていくこれからの歳月を、どうしたらより善く立派に過ごすことができるかだけを考えよ。

 星々がどのように動いているか、この世の諸々の元素がどのように変化しているかを考察することで、地上の生の汚れを拭(ぬぐ)い去ることができる。

 地上にあるすべてのもの、すべての出来事を上空からながめるような見方をして、それらに対する考えを深めよ。それらは、家畜の群れ、農耕、結婚、離婚、出生、死亡、裁判、荒地、祭、広場など混沌(こんとん)とした、相反するものの集合ではあるが、そこには見事な調和と秩序があるではないか。

 過去の王朝の頻繁(ひんぱん)なる盛衰(せいすい)の歴史をながめ、またこれからの未来どれほどの国々が生まれては滅びることであろうかを考えてみよ。しかし、それでも諸物は今までと全く同質で変わらず、今後も今までの規則に従ってすべてのものは生まれ変化していくはずだ。決して今までの秩序を逸脱(いつだつ)することはありえない。そのことを想い描けば、40年という一生も1万年の生も変わりはない。長く生きれば、それだけより多くのものを見ることができるということにはならないのだ。

 大地から生まれたものは大地に、天空より生まれたものは天空に帰るのである。

 人々は死を逃れようとしてひたすら供物(くもつ)をささげたり、呪文(じゅもん)を唱えたりするが、人間は、自分に下された運命にただ従うのみしかないのである。

 私は、たとえば肉体的な力などは他者より劣るが、公共の精神に富んでいること、慎み深い心を持っていること、節度のある行動ができること、身近な人々の誤りに対して不機嫌(ふきげん)にならず優しい心で接することができること、そういう点においては、誰よりも優れていると思う。

 神々と人間に共通する理性をもって事を行うなら何も心配することはない。正しい道を進み、人本来の成り立ちに則った活動をし、また世のためになるとされることを行うなら、自分の邪魔(じゃま)をするどんな障害も起こりえない。

 現在の状況に感謝して満足し、周りの人々には正義に則って接し、自分がいだく想いには絶えず気を配ること、それらは、いつどこにおいてもお前はしようと思えばできることなのだ。

 周りのことばかりを気にするのはやめよ。自然の摂理は、お前の身に生ずることをとおして、お前をどこにどのように導こうとしているのかを絶えず考えよ。またお前の本性は、その行為によってどこに自分自身を導こうとしているのかを思案せよ。
 人だれもが行う行為は、人間としての本質的な成り立ちに従ったことである。それでは、人間の本質とは何なのか。
 第一は、公共的要素にあるということだ。そして第二は、理性を持ち肉体的な欲求や感覚に対して抵抗できるということである。これらは、動物と異なる知性という最高のものを備えている人間にこそあてはまるものである。さらに三番目には、軽率な行動や過ちをおかさない部分を持っているということである。つまりこれらのことから、人間の本質たる理性に従い、ただまい進すればそれで良いということになるのである。

 天から与えられたこの残された人生を自然に従って生きるのだ。そして、運命によって自分に起きること、遭遇(そうぐう)することをもっぱら愛することが必要だ。

 どんなことに遭遇しようと、憂(うれ)いもだえたり、動転したり、悪口を吐くような人間にはなるな。お前は、自分が出会う出来事に隙(すき)なく対処できる人間となれ。そのようにあろうとすれば、自然とその力はお前の身につくはずである。ともかく、いかなる行いをするにせよ、自分の意にかなった立派な行動をせよ。

 自分の心を徹底的に掘り下げていけ。お前の心の底には善の源となるような泉がほとばしるほどの勢いで流れているはずだ。

 健康で強い肉体も保て。精神が肉体に影響を及ぼすように、肉体も健全でなければ、人間を善の状況には導けない。

 生きる術(すべ)は、思わぬ攻撃に対して備えるという点では、舞踏(ぶとう)ではなくレスリングに似ているのではないか。

 自分の証人になってほしいと思う人間については、その人を徹底的に知ることが大切だ。そのうえで彼らに証言を託(たく)するのでなければならない。

 人は、簡単に正義・慎み・親切心などを失いやすいということを絶えず頭に入れておけ。そうすれば他人にさらに優しく接することができるようになる。

 苦痛とは恥ずべきものではなく、精神を劣悪化(れつあくか)させるものでもない。それが、理性というものから発して、国家公共に関わるものであるなら、精神を頽廃(たいはい)・崩壊させるものでは決してない。
 苦痛は、自分で勝手に思いこまない限り、耐えられないものではなく、永遠に続くものでもない。確かに、苦痛はわれわれを不愉快(ふゆかい)にし、不機嫌(ふきげん)にするものである。自分が不愉快、不機嫌になっているということは、その時点で苦痛に負けているということであるということは事実なのだ。

 人間嫌いが人間にいだくような感情を、お前は人間嫌いな人に対していだくな。
 名声高い死を遂げたソクラテスを見よ。寒い夜も泰然(たいぜん)として過ごし、気高き勇気を保ち、歩く時は上を向いて悠然(ゆうぜん)と闊歩(かっぽ)し、神に対し敬虔で、人に対して正しく、世の中の悪に悩みもだえることもなく、他人の無知にただ従うということもしなかった。また、天から与えられるものに、自分には関係ない異質なものだというような態度でもって受け取ることもなく、当然耐えられないものだといわんばかりの態度でしぶしぶ我慢するというようなこともなかった。肉体の状況に影響を受けやすい精神を、絶えず管理し理性的に生きたのである。

 人間が自己の領分(りょうぶん)において、自分の力で事をなすことは許されている。人知れず、神と変わらぬと言えるほどの生き方をすることも不可能なことではない。そのことを忘れるな。
 幸福な一生を送るには、ほんのわずかなもので事足りるのだ。確かにお前は、論理学や自然学の学者になるという夢は失った。しかし、道義心、公共の精神、神に対する敬虔な心や志を失ってはならない。

 たとえ、人がどんな悪口を言おうと、肉体的にどんな目に合おうと、無理なあり方をせず、明朗な生き方を貫け。そして絶えず平静な心を持ち、周囲の事物に対して正しい認識を持ち、手に入るものを喜んで使用するなら、お前の生にどんな障害も現れない。
 そのようにすればお前の行動は、元来人がすべきであったこと、人が求めていたこととみなされるようになるはずだ。なぜならこの世にあるすべてのものは、理性的な公共的なものの材料となるものであり、神や人間にとって本来的なものであるからだ。

 最高の人格とは、一日一日を自分の最後の日だと思って生活し、心を怒りが占領することもなく、無気力にもならず、偽善(ぎぜん)にも陥らない人間のあり方なのであるのだ。

 神々は不死の身であるため、どれほどの数のつまらない者に我慢してきて、また今後も我慢しなければならないであろうか。それなのに、何一つ不機嫌な顔などされない。それどころか、あらゆる仕方で人々に数々の配慮をされている。ところがお前はやがて死ぬ身であり、しかもお前自身がつまらぬ者であるにもかかわらず、つまらない者を前にしただけで意気消沈(いきしょうちん)するとでもいうのか。

 自分自身が生み出す悪に対して自分の身を守ることもしないで、他者からの邪悪(じゃあく)から身を守ろうなぞお笑いだ。

 お前が親切を尽くし、相手が親切にされたと思うなら、それで良いではないか。それ以上の何を求めるのか。世の評判か、それとも見返りか。

 人が自分のためにあれこれしてくれているのに、それがいやになってもう結構だという人などいない。「他人のためになる」ということは自然に即した行為なのである。自分が人のためになり、自分も人から自分のためになることをしてもらう時、もう結構だというようなことは決してあってはならない。

 万有の本性は、秩序ある宇宙を創ることを意図としたのだ。以上のことを心に持ち続けていれば、どんな時でも平静でいられるはずだ。

 全生涯を哲学者として暮らすことあきらめ、そのような生活をすることが不可能になったこと、それどころか自ら哲学の道から遠のいたことを反省すべきだ。今のお前は世俗的なことにどっぷりとつかり、また日々の仕事もあることから、哲学者として評判を得ることはもはや難しくなった。
 それであるなら、大事なことは何か。人から何と思われようとも、これからの残された人生をお前の本性に従って生き、それに満足するということだ。それではその本性とは何か。ともかく、それをしっかりと考え、他のことには頭を悩ますな。実はそれをお前はすでに知っているはずなのだ。それは、富にも名声にも享楽の中にもなかったであろう。それは、人間を正しく、慎み深く、勇敢に、自由な精神に導く善の信条の中にのみあるのだ。

 一つ一つの行いをなすにあたって、絶えず次のように自問せよ。この行為は自分にとってどんな意味をもっているのか。そのように行動したことを、あとになって後悔(こうかい)することがないのかと。私もそうだが、私を含めて、所詮(しょせん)すべてのものはしばしの間この世に存在し、そして死によって消えてしまうものである。今の自分の行いが理性的で公共の役に立つことであり、人間としてなすべきことを外れていないなら、何をほかに求める必要などあろうか。

 過去のどんな国の支配者も古の偉大な哲学者に比べればどれほどの者であったと言えるであろうか。偉大と言われた哲学者は、事物の素材とその運動の原因そしてそれらを支配しているものが唯一つのものであることを見抜いていた。しかし、前者の人々は各々の事物や出来事に対してとらわれ、そのことにどれほど振り回されていたことであろうか。

 たとえお前が胸の張り裂けるような思いをして事をなしても世間一般の人々は今日も同じことを繰り返すだけである。

 あれこれ思い煩って心を乱すようなことをするな。すべてのものは、万有の本性にしたがってこの世に生まれ、そして消えていくだけのものなのだ。一方でお前は、すべての事物を注意深く観察して、その正体を見抜く必要がある。当然その時のお前は正しくものを見ることができていなければならない。同時に、人間の本性は何を求めているかを想い描き、わき目も振らず、ただ正しいと思うことだけを実行せよ。温かい好意にあふれ、慎みの心を持ち、偽善(ぎぜん)をしりぞけよ。

 万物の本性は、ここにあるものをほかの別の所に置き換えたりして、この世に千変万化をもたらしているのである。しかし、お前は見たこともないもの、経験したことのないものの出現を恐れる必要はまったくない。なぜなら、万物の本質的なもの、また万物の配置は何百年たとうとも実は変わらないものだからなのだ。

 すべてのものは、その本来の道をひたすら進めばそれでよいのである。想念とは、虚偽のものにそれを向けそれに同調しない限りは常に正道を歩むものなのだ。欲求に対しては、公共のこと考えて行う限り何ら問題は生じない。また、われわれが制御できるものだけを対象とすればよく、自然がわれわれにもたらすものを、すべて悦んで受け入れるなら、すべて良い方向に進むものなのだ。

 人間も、もとをただせば自然の本性の一部分なのである。自然は人々にその人の力に応じてではあるが、すべて平等に対処する。そこに不公平など存在しない。ただし、その平等は一つ一つのことに対して貫(つら)かれるのではなく、各々の時間経過も含む総体に対しての平等であることを頭に入れておく必要はある。

 本を読んで勉強するような時間は、今の私にはない。しかし、傲慢(ごうまん)にならないこと、快苦を超越(ちょうえつ)すること、名声にこだわらないこと、人の恩を感じない者に怒らず、そのような者にも気配りしてやることはできるはずだ。

 宮廷生活を口実とするような言葉を、他人に対しても自分に対しても決して発するな。

 後悔とは、良いことをしなかった自分に対して向けられるものである。徳ある人間は、その機会がある時に良いことをしないことなどはありえない。徳ある人間が自分の一時の快楽を取りこぼしたとしても後悔はしないはずだ。なぜなら快楽は良いものでも、ためになるものでもないからだ。

 事物を見るにつけ、それがいかなるものであるか。それを存在させたものは何であるか。その素材はいかなるものなのか。それが存在する原因とは何か。何をなすために、いかなる期間それは存在するのか。それらを考えよ。

 眠りとは理性のあるなしに関わらず、動物の本性にかなったものである。同様に、公共の仕事をすることは、まさにお前の本性にかなったことであるはずだ。

 自分の想いに対して、常に自然学的、情念論的、論理学的に考察することが大事だ。

 人に出会ったとき、まずその人間は善悪に関してどのような考え方を持っているかを見抜け。そうすれば彼の行動がいかなるものであろうと、ただその考え方に従って行動しているに過ぎないと言うことが分かり、決して驚くことなどなくなるはずだ。

 イチジクの木がイチジクの身をつけたといって驚く人などいないように、この世界が何らかの成果をもたらしたからといって驚くことなど何もない。
 また、医者が患者が熱を出したといって驚くことも、船長が向かい風が来たからと言って驚くこともおかしなことである。

   お前がお前を批判する者の言うことに従って自分の道を変えたとしても、自分がそうすべきだと考えて行ったのなら自ら意志で行った行為と何ら違いはない。

 ある行為がその人の自由な裁量(さいりょう)にまかされているならば、それがあまり良くない行為であったとしてもその人を非難などすべきではない。
 なぜなら、お前はその人を正しい方向に導けるなら、ただしてやるべきだからだ。仮にそれが不可能であっても、非難することはおかしなことである。そうすることが、お前にとって何の役にも立たないことだからだ。すべての人は何らかの意図をもって行動しているということは当然のことなのである。

 人間が死んだら、この宇宙の外に捨てられるわけではない。この宇宙で変化し、自分を成り立たせたもとの諸元素に分解されるだけのことだ。そしてその諸元素はまた別のものを成り立たせるもととなる。しかし、このことに諸元素は何一つ不満など言うことはない。

 動物であろうと植物であろうと、すべてのものは、存在する目的があって生じたものである。それをお前は疑うのか。われわれは、ある仕事を果たすためにこの世に生まれてきたのではないのか。まさかお前は、ただ自分が楽しむだけのために生まれてきたとは考えていないよな。そのような考え方が批判に耐えられるものかよく考えてみよ。

 たとえば、まりが上昇しそして今度は下降して落ちるように、すべてのものはその本性に従って生まれ、存続し、そして消えていく。
 まりにとって上昇することが良い事であり、下降して落ちることが悪いこととでもいうのか。泡が結びはじけ消えるのも、火が付きそして明るく照らし消えるのも全く同じことだ。

 人間の肉体は、老いるし、病気になることもあり、そしてついに死もむかえる。その意味とその正体を見抜け。
 賞賛する者もされる者も記憶している者も記憶される者も皆、その命は短くはかないものである。それは変わることのない原則である。それなのにこの大地の一隅であるこの地においても人々の協調はむずかしい。自分が自分自身と協調することでさえできないありさまだ。この宇宙から考えればほんの一点にもすぎないこの地でこのような状況なのである。

 存在するもの、その活動、人々の考え、その言葉の意味するものに心を向けよ。このような目にあった、あのようなことに遭遇したというが、それも当然のことなのである。ともかく、いつも明日に向かって今日よりは立派な人間になれるよう心掛(が)けよ。

 私は人々に親切にし、恵みをもたらすことを目標として行動する。どんなことが私の身に起ころうとすべて心静かに受け入れる覚悟でいる。

 良いことも良いものも、吐き気をもよおすようないやなことやいやなものも人生には起こるし、世の中には存在するのだ。

 歴史上の偉大と言われた人間もある時は権勢(けんせい)をほしいままにし、やがては衰えあるいはわなにはまり滅びていった。ある者は、束の間の記憶にも残らず、ある者は昔の物語の中の人物に姿を変えた。その物語からさえも消え去っていった者も多くいる。お前もやがてはその肉体は滅びる、呼吸もなくなり、消滅し、別の世界に移動する時が来るのは間違いないことだ。

 人間の喜びとは、人間本来のあり方に従って行動することにある。具体的には、他者に対して善意で接すること、感覚的なことに惑わされないこと、物事の是非を的確に判断すること、すべてのものの本性とそれに従って生起するすべてのものについての認識を深めていくことである。

 魂を包む肉体とはどのようなものであるのか。あらゆるものの誕生ということの根源には何があり、また何が原因となってものは生まれるのか。この世でともに生きている他者とはいったい何であるのかをじっくりと考えよ。

 苦痛とは肉体にとって悪いものなのか、あるいは魂にとって悪いものなのか。もし、肉体にとって悪いものであるのなら、その苦痛をそのまま表に出すがよい。しかし、魂に対するものなら、魂を平静に保つことによって、苦痛自体を立ち去らせることができるのではないか。
 たとえば、批判・意欲・欲望・忌避などは魂の内部に生じることで、外部のものがそこに侵入してくることはないのではないか。

 このように絶えず自分に言い聞かせて、心に湧き出る感情を制御できるようになれ。自分の心に一つの悪も、一つの卑しい欲望も、どんな困惑も生み出さないようにすることはできるのだ。すべてのものの正体を見抜き、それにふさわしい取扱いをせよ。そういう能力をお前は持っていることを忘れてはならない。

 いついかなる時でも節度を守り、健全な言葉を使え。

 生まれ出た人間は、いつかは死んでしまうし、自分の一族の血筋だけは残そうと必死でもがいても誰かは最後の者となり、そしてその一族は絶えてしまうのである。

 人生とは一つ一つの行いから成り立ち、その一つ一つの行為が人生における自分の使命を果たしているのならそれでよいのである。そしてその限りにおいて、基本的にはその行いを妨害する者は一人として存在しないのである。しかし、外部からその行為を邪魔しようとするものは、時として現れてくるであろう。ただ、それは、お前が正しく、思慮深く、理にかなった態度をとることそのものを妨げるものでは決してない。それでも、確かにお前の行為の一部が邪魔されることはあるだろう。その時は、心にゆとりを持ち、邪魔するものに対して微笑め。そうしたらおのずと人生の組み立てに沿った新たな道が眼前(がんぜん)に示され、そちらへと行為が赴(おもむ)いていくのである。

 受け取る場合は、横柄(おうへい)な態度はとらず、手放す場合はいやいやながらするな。

 自分の人生に生ずることを喜ばず、それから離れようとするものや公共を無視したことをなす者は、自分の手足や首を胴体から、自ら切り離す者である。
 お前は、宇宙の本質という統一体の一部として生まれたはずだ。それなのにお前はそれから切り離されたものとして、いや自らを切り離して生きているのではないか。もしそうであるなら、神は自ら離れたものが、もう一度戻ってくることを拒みはしないということ、その神の恵みというものを考えよ。

 宇宙の本性が、すべての理性的生き物にその理性という能力を与えたのである。われわれ人間も当然その仲間なのである。宇宙の本性は、自らを妨害し邪魔するものもすべてを天命に向かって方向づけ、自分の組織の中に組み込み、自己の一部とするのである。それと同じように、その本性を分け与えられたわれわれも、すべての障害物を自己の材料として取り込み、自己の望むところに向かって用いることができるはずだ。

 人生についてあれこれ思い、心乱されるな。どんな苦難に見舞われるだろうかなどと将来を思い煩(わずら)うべきではない。現在のことのみに専念し、それに対処する時、次のことを自問すればよいだけのことだ。この仕事のどこが耐えがたく手に負えないものなのかと。今現在、想像できないような苦難など将来やってくるはずがない。
 また、今自分の心にのしかかっているものは、過去でも未来のことでもない。現在のことだけである。もし、それだけを取り出してみるなら、それに対抗できない自分などあろうはずがないではないか。それができない精神なら、もっと自分自身を叱責(しっせき)・叱咤(しった)すべきではないのか。

 何千年も前の偉人の墓の前に今もうずくまって悲しんでいる者がいるであろうか。仮にいたとしてもそのことが、死んだ偉人に分かるのか。さらに聞くなら、それが分かったとして、それによって死んだ偉人はうれしいのか。仮に偉人が喜んだからといって、うずくまっていた連中が不死になるとでもいうのか。偉人の死を悲しむ者も、やがて年を取り、死んでいくのである。彼らが死んだあと、偉人たちは何をしようというのか。死後において敬われることに、いったいどれだけの意味があるというのか。

 もしお前が、自分に苦痛を与えていると思われるものに対して、そのものの想念を捨て去ることができるなら、お前はそれでその苦痛から逃れることができ、そして精神の安泰を得るであろう。お前は、理性を持つがゆえに自分で自分を苦しめているのではないか。そういうことを考えてみる必要がある。

 感覚器官の障害、欲求に関する機能の障害は自然の中で暮らす植物や動物にとっては悪そのものである。同様に、理性の障害は、理性を有するものにとっての悪である。さて、そこでお前自身について考えてみよう。もしお前が無制限な欲求のいうままになったとすれば、理性的な存在者としてのお前にとってそれは悪以外の何物でもなくなる。そのようにはならず、ともかく万人に共通な理性というものから逸脱(いつだつ)しなければ、何の障害もないのである。
 理性の働きを他人が阻害することなどない。火であろうと、暴君であろうと、中傷であろうと、何ものも理性を傷つけることなどできない。理性は自分自身が完璧を保とうとすれば、それを保持することができるものなのだ。

 私は自分を痛めつけることなどない。なぜなら、自分以外の他人さえ意識して痛めつけたことなどないからだ。

 人の心を悦ばせるものは、人それぞれによって異なる。私はといえば、自分をしっかりと制御できて、他者に嫌悪の念をいだかず、すべてを好意に満ちた温かいまなざしで見て、そしてそれを受け入れ、各々をその価値に即したあり方で待遇する時である。

 死後の名声を追ったところで何になるというのだ。後世の連中も今のうっとうしい連中と変わらない人間の再来ではないのか。そして、彼らもまた死んでいく運命のものである。後世の連中が今の連中と同じようなことを言ったとしても、いったいそれが何なのか。

 誰かが私をどこかに放り出そうと一向にかまわない。どんなところであろうと私は明朗に自足して生きていく。
 そもそも、私がどこかに放り出されるということが、私の心を乱し、堕落させ、恐怖に陥(おちい)らせることにつながるのか。それが私を欲望の虜(とりこ)にする理由にでもなるというのか。とはいえ、そもそもお前はどこかに放り出されるようなことを今までしてきたのか。

 人間に対し人間的でないことは生じないのだ。牛であろうとブドウであろうと、石ころであろうと、すべてのものがその本性にかなわぬことは生じないのだ。そうであるなら、お前はお前の前で起こっていることに憤慨(ふんがい)する必要などないはずだ。自然の摂理は、お前の本性が耐えられないようなことをお前にもたらしはしないのだ。

 お前が何かに苦しむ場合、お前にその苦しみを与えているのは、お前の外にあるものではなく、それに対するお前の内部の判断なのであることを認識せよ。それなら、その苦しみを打ち消すことは、お前の力で十分できるはずである。もし、それを打ち消すことを妨げるものがあるとしたら、それはお前自身ではないのか。
 また、お前がある健全な行為を自分がしていないといって悩むなら、悩む前になぜそれを実行しないのか、実行すればいいだけのことではないか。もし、自分にはどうすることもできない巨大な力がそれを阻(はば)んでいるというなら、逆に悩むことはやめよ。なぜなら、その原因はお前自身にはないからだ。

 しかし、もし、それが実行できなければ、自分の生きがいがなくなりますと言うかもしれないが、それでも、優しく温かい心で、お前は、そのお前を阻むものに接してこの世から去っていくべきなのだ。

 自分が望まない、なすべきでないと思うことを絶対にしない。そういう心と態度を持つことができれば、何事にも負けることはない。情念を超越(ちょうえつ)する者は、難攻不落(なんこうふらく)な心を持つ者であり、憂いのない人生を送ることができるのである。このことを知らない者は無知であり、知りながら実践しない者は不幸である。

 他のものに対して、最初に得た印象以上のことを自分の中につくりあげるな。誰かがお前の悪態をついていると聞かされれば、ただその事実だけを受け入れ、それ以上のことを想像するな。悪態をついたという事実があるとしても、そのことにより、お前は何の直接的な害も受けていないはずだ。ともかく、第一印象以上に自分の心が新たに発するものを付け加えるな。そうすれば、何事も新たに起こることなどないのである。

 苦いきゅうりは捨て、道の上のいばらは傍(かたわ)らにどければいい。なんでこんなものが宇宙にあるのかとあえて文句を言う必要など何もない。大工の仕事場を訪れてかんなくずが出ることに文句を言ったり、靴職人のもとで皮の切れ端が出ることに文句を言ったら物笑いの種になるのではないか。それはともかくとして、彼らはそのくずを捨てる場所をちゃんと持っているのである。自然は、自己の限界を区切り、自己のうちにある破壊されたもの、老化したものをすべて自己に同化させ見事にそれらから新たなものを生み出している。自然は外部からの素材を必要とせずまた、老廃物(ろうはいぶつ)の投棄(とうき)場所も必要としないのだ。それは見事に自足しているのである。

 すみやかに行動すること、人と会話する時には話をもつれさせないこと、気持ちをあちこちにフラフラさせないこと、魂が委縮(いしゅく)することもなく興奮することもないこと、あくせくといたずらに忙しがらないことが大事だ。きたない言葉を吐かれ、他者からなじられ、呪われようと、そのことと自分が精神を清浄(せいじょう)に保ち正しくあることと何の関わり合いもないことである。
 底まで透き通るような泉のそばで雑言(ぞうごん)を吐いたとしても、泉は清らかな水を噴出し続けるのだ。たとえどんな汚物を投げ込もうともたちまち洗い流し浄化してくれる。
 単なる水槽(すいそう)ではなく、このようなこんこんとわき出る心の泉をお前はどのようにしたら手に入れることができるのだ。いついかなる時も、自分に対して厳しい目をもち、おのが身を慎み、親切、素朴、謙虚(けんきょ)の心で自由で澄み切った境地を導くことでそれは可能となるのだ。

 宇宙が何であるかを知らない者は、自分が今どこにいるかも知らない者である。自分が何のために生まれたかを知らない者は、おのれが何者であり、宇宙とは何であるかを知らない者である。これらを知ろうとしない者は、自分の存在理由など語ることができない者である。
 自分が今どこにいて、何者であるかを知らない者が、他人がお前を拍手喝采(はくしゅかっさい)しほめそやすことを避けたりあるいは求めたりすることなどできるのか。

 自分をいつも呪う者にお前は褒(ほ)められたいか。自分に満足できないような人間に気に入られたいと思うか。事あるごとに後悔するような人間が、自分に満足などできると思うか。

 ただ単に回りの雰囲気に同調して生きるな。いつも自分の理性を働かせてその理性の力を体中に浸透させよ。理性の力は空気のように呼吸する者に浸透していく力を持つのだ。

 悪とは決して宇宙を害するものではない。またある一部分に関わる悪が、その外のものに害をもたらすこともない。ただ、自分の受ける悪から逃れる力を持っている者に対してのみ、それは有害なものとなるのだ。

 私が自ら選び行うことに対して他者は何の関与もすることはできない。自分と他者は相互依存の関係にあるとしても、各々の自主性は保たれている。もしそうでなければ、他人の悪が私の災いとなってしまう。神は決してそのようにならないようにされたのである。私の幸不幸が他人にゆだねられることなどないのだ。

 太陽は四方八方に光を降り注ぐが、決して消滅してしまうことはない。その光は障害物があればそこで止まるが消え去るわけではない。われわれの精神も同じで、注ぎ尽きてしまうことはなく、障害物にぶつかれば、暴力的に破壊するのでも、消え去ってしまうのでもなく、そこで立ち止まればよいのである。

 死を恐れることはない。死とは感覚が消滅してしまうか、今とは違う感覚を持つようになるかのどちらかだ。もし、前者のように感覚がなくなるなら、悪いことを感じることもなくなるので、それはある意味、良いことではないか。また、別の感覚を持つと言うことなら、異なった生き物としてお前は生きつづけることであり、別に生きることをやめるということではないのだ。

 人間は相互関係の中で生まれた。それなら、誤りに対しては相手を正しい方向に教え導くか、それができなければ耐えればよい。

 矢と精神の飛び方は違うが、もし精神を集中し目的が定まったら、矢と同様まっすぐ飛ばせ。

 誰に対してであろうとその精神の中にまで入り込め。また他者がお前の精神の中に入り込むことを許してやれ。

 不正を行うものは、神を汚(けが)すものである。なぜなら、そのような人間は、神が理性的動物を相互に益するために創造したのに、その神の意図を踏みにじっているからだ。
 また、意識して嘘をつくものも神を汚すものである。なぜなら、この世は「真理」によってつくられており、意識して嘘をつくということは、この真実を欺(あざむ)くという不正を犯しているからである。それなら、意識することなく嘘をつくものは許されるのか。いや、彼らも意識して嘘をつくものと結果的には同罪である。なぜなら意識することもなく嘘をついてしまうということは、自然の本性がわれわれに与えてくれたいろいろなてだてをないがしろにし、そのうえ虚偽(きょぎ)と真実の区別がつかなくなっているからだ。
 さらに、快楽を善いものとし、苦痛を悪いものとして避ける者も神を汚すものだ。なぜなら、そういう輩(やから)に限って、いつも自然はつまらぬものを快楽の中に置き、優れたものを労苦の中に投げ出すと言って不平をこぼすからだ。
 最後に、労苦を恐れるものは宇宙の将来を恐れるものであり、それもまた神を汚すものだ。また、快楽を追うものも不正を行うことを恥としないのであり、これもまた神を汚すものだ。
 自然の本性が平等に造りあげた労苦と快楽、死と生、名声と不評などには、当然、人間は平等・公平な心構えで接しなければならないのである。それらに平等に接しないものも神を冒?(ぼうとく)するものだ。なぜなら、自然の本性がこの世に次々に生起させるものや変化は、すべて自然の本性が意図をもってなしていることだからだ。

 虚言・偽善(ぎぜん)・軟弱・傲慢(ごうまん)などがどのようなものかを知らずに死ぬとしたらそれは高尚なる君子こそができることであろう。それができないとすれば、それらの悪徳の味を知るやいなやすぐにあの世に旅立つということが次にできることかと思う。
 お前は、今もってそれらの悪徳をできる限り避けることもせず、それに身を任せているのではないだろうな。これらの悪徳に比べれば、肉体の病的異変などものの数ではない。

 死を忌嫌(いみきら)わず、死も自然が欲するものだとして平静であれ。成長し、子どもができ、白髪が増えることと死は同じ人生の営みの一つなのである。お前の子どもが妻の胎内から生まれ出て誕生するのを待つような態度で、お前の魂がこの肉体から抜け出るのを迎えよ。また死は、一方ではいやな人々との交流から自分を解放してくれるものでもあることも頭に描け。

 過ちちを犯す者は、自分に対して過ちを犯しているのである。同様に、不正を行う者も自分自身を悪に導いて、自分を悪い人間におとしめ、自分に対して不正をしているのである。

 人は不正を働こうと意図しないでも、知らず知らずのうちに不正を犯すことがある。ゆえに、今の自分の心が、対象を正しく把握し、現に行っている行為が公共的性格を持ったものであり、外的要因によって起こるすべてのことに満足できているかを省みよ。

 自分の衝動・欲望の火を消し、自分を制御できる人間になれ。

 理性を持つものには、宇宙の魂の一部がそのまま与えられている。われわれすべてのものは同じ光でものを見ているのである。

 ある共通のものを分かち合うものは、同類のものに向かっていく傾向がある。土の性質を持つものはすべて大地に落下するし、火の性質を分かち持つものは天に上るし、水の性質を分け持つものは互いに集まって合流し川となる。
 それと同様に、理性を持つものは、同じ理性を持つ同類のものに向かう強い傾向を持っている。理性を持たないミツバチや家畜においても群れをなして同類のものに向かっているではないか。理性的な動物においては、政治組織、友情、家庭、条約などを持ち、個々には分け隔てられた存在ではあっても、そこに統一と呼べるものが存在する。
 ところが、現状を見てみるとどうであろうか。理性を持っているはずの人間だけが、相互への熱意と結合を忘れているかのように合流などというものが見かけられない。しかし、それら理性を持つものも、結局のところは自然という一つの手の中にとらえられていることを忘れてはならない。

 秋になるとブドウが実を結ぶように、人も神も宇宙もそれぞれ固有の時が来ると実を結ぶのである。理性もまた同じである。その時が来れば、普遍的なものと個別的なものを兼ね備えたものとなり、それが産み出された本体である理性と同質のものとなるのである。

 誤っている者は、正しい方向に教え導いてやればよい。仮にそれが不可能でも、それに接する態度は好意に満ちた温かいものでなければならない。神々は、そういう心構えの者には好意ある態度を示されるはずである。例えば、健康・富・名声などをある程度与えてくださる。お前もそのように他者に接することができるのではないか。

 額に汗して仕事をするときは、惨(みじ)めたらしい態度はとらず、ものほしげな眼で同情を買うようなことをせず、ひたすら公共のために今の仕事に尽くせ。

 今日私はすべての面倒なことから解放された。いや捨てたというべきか。なぜなら面倒なことは自分の外ではなく、内にある考えだからである。

 面倒と思われることは、すべて自分の経験の中で自分がそのように判断しているだけのことである。よく考えてみれば、ほんの短時間で終わりその量も少ないものではないのか。

 自分の外部にある事物は、他と無関係に存在し、独立しているのだ。それに対してわれわれの理性は、自分自身でそれに影響を与えることができるのである。

 人間が幸福か不幸かは、他からもたらされるものにあるのではなく、自らの能動性(のうどうせい)の中にあることを忘れるな。

 投げあげられた石は、上がることが良くて、落ちることが悪い事であるのではない。

 すべては変化の中にある。お前もそして宇宙もそうだ。

 他人の過ちはそのままそっとしておくべきである。

 活動の停止、意見の終息、死たりとも決して悪い事ではないはずだ。幼年期から青年期、壮年期そして老年期と移ることが恐ろしい事か悪い事か、それもある意味死と変わらないことではないか。母のもとで暮らし養父のもとで多くの変化や終焉(しゅうえん)を見てきたがそれがそら恐ろしいことだったか。
 そうであるなら、お前も死もけっして恐れるべきではない。

 お前自身が宇宙そしてお前の回りの人間をしっかりと考察せよ。

 お前は国家公共の構成要素であり、お前の行為も国家公共に関わったものであるはずだ。その関連を無視して行為することは決して許されることではない。それは国家公共の協和(きょうわ)に背き、離反(りはん)することだ。

 なぜ、このものが今、この世に存在するのかの意義を考え、また、それがいつまでこの世に存在するのかを思考せよ。

 お前は今、自分のなすべき仕事をしているはずだ。しかし、それに満足することを知らないばかりに、数えきれない厄介(やっかい)ごとに見舞われている。愚かなことではないか。

 他人がお前のやっていることに非難の気持ちをいだいたり、口にしたりしている時は、その人の人となり、そして心の中を十分に観察せよ。そうすれば、それは、お前の心を惑わすようなものではないことが分かるはずだ。
 ともかく彼らはもともとお前の同胞(どうほう)だから、温かい心をもって接しなければならないのだ。神々は彼らが悩み苦しんでいる時にも、絶えず助けの手を差し伸べていることを忘れるな。

 宇宙のこの循環は恒常(こうじょう)不変である。宇宙の精神は、すべての個々のものにその都度、その意図を及ぼす。もしそれが間違いないことなら、お前はその意図を受け入れねばならないのだ。
 ひょっとしたら、その意図は最初の一回かぎりで、あとは一定の順序に従って生起しているのかもしれない。しかし、それが何の問題となるのか。

 神が存在するとすれば、すべてはそれで良いではないか。もし、仮に無意味な偶然が支配しているとしても、お前はその無意味な偶然に身を任せそれに調子を合わせる必要などないはずだ。

 すべてのものは、大地に帰る。その大地もついには別のものに変化し、それは永遠に繰り返されるのだ。
 この悠久(ゆうきゅう)の流れを感得(かんとく)すれば、自分を含めすべてのものは無常であるものとして、心安らかに見ることができるのではないか。

 宇宙の摂理から見れば、政治を仕事とし、哲学を土台に行動しているからといって自惚(うぬぼ)れる人間など低劣(ていれつ)で卑小(ひしょう)である。はなたれ小僧と変わりはしない。
 人間よ、お前はただ自然が今お前に求めていることをなせばいいのだ。事情が許さねばやむをえないが、そうでないかぎり今自分に課せられた使命を果たせ。他人がお前の行いを知ってくれているかどうかを気にかけたり、ものほしげに回りを見渡すことはやめよ。

 プラトンの説く理想国家を夢見るな。この種のことは、たとえわずかでも前へ進めることができればそれでよいのである。人々の主義主張など他人が簡単に変えることなどできないのだ。人々はただ不満をいだきつつも、外面的にはお前に従っているような恰好(かっこう)をしているだけなのだ。国を治めるとは、舞台上で悲劇の主役を演じるのではない。
 哲学とは外面を飾ることとは程遠い、単純で素朴で慎(つつ)ましいものなのだ。自分を良い者として気取るためにあるものではない。

 この世に生じ、集まり、消え去る無数のもののなんと千差万別(せんさばんべつ)であることか。これらを高い所から眺めて見よ。死んだ人々の過去の生、現在生活している人々の生、また今から生まれてくるであろう人々の生を考えてみよ。

 また、いかに多くの者がお前の名前など知らないか、知ったとしてもすぐに忘れる人間が多いことか。あるいは、今お前を褒(ほ)めている人間も手のひらを返したように悪態(あくたい)をつくことを知っているか。人の記憶や名声など口に出して言う価値もないものだ。

 外的な原因によって生ずるものに惑わされるな。内部から生じる公共のためにという想いにしたがって行動せよ。それこそがお前の本性にかなっていることなのだ。

 お前を悩ませるものは、お前の心の中から生じているものなのだから、それらをお前の心の外に排除(はいじょ)してしまえばよいのである。そうすれば、心の内に広々とした余裕(よゆう)の空間を持つことができるのだ。そうすれば永遠の時を見渡すことができるようになり、事物の生成から消滅までがいかに短いかを、そしてその前後の永遠の時がいかに壮大(そうだい)かを感ずることができるようになるのだ。

 お前の目の前にあるものはすべて無常にも迅速に死滅するものだ。またそれをみとったものも同じように速やかに死滅する。長寿を全うした者も、天寿をまたず夭折(ようせつ)したものも結局同じように死ぬことに変わりはない。

 ある者が何の努力をしているのか、何ゆえにそのものを愛好しているのか、彼らの魂を常に裸にして観察する習慣を身につけよ。もし彼らが、人を非難することによって傷つけており、ほめたたえることによりいい気もちにさせていると考えているのならそれは、彼ら自身が自惚れているだけのことだ。

 失なわれるということは変化なのである。変化とは自然の法則に従ったものだ。その自然の本性に従って万物は未来に向かって次々に生じていくのだ。
 それなのにお前は、あるものは良くない生じ方をしたとか、将来もそれはその良くないことを変えないなどと言い張るのか。

 物質が腐敗する時、水、塵(ちり)が生じる。大理石は大地が硬化して出来上がったものに過ぎず、金銀といってもそのときにできたついでのものにすぎない。衣服は動物の毛だし、赤い染料は血液である。われわれの一生もそれらと同様、変化の一部にすぎない。

 みじめで、不平不満だらけで、猿まねの猿のようにお前は生きていくのか。なぜお前はそのように心を乱して悩むのか。事物そのものに悩んでいるのか、あるいはそのものを成り立たせている原理原則に対して悩んでいるのか。なぜ、そのようなことで平常心を奪われるのか。お前も十分分別のつく歳になったはずだ。神の前に立って素朴純一な人間となってものを見よ。目にするものは、百年見続けようと、3年しか見なくとも変わりはしないのだ。

 ある者が過ちを犯したら、報いはその者にふりかかる。もしふりかからないのなら、彼は過ちなど犯してはいないのだ。

 すべてのものは、理性をもった一つの根源から生まれ出たものだ。その中の一つが、当然全体の利益のために生まれ出た他のものをののしる権利などない。あるいは、この世はただ原子が離合集散しているだけの世界だとも考えられる。
 この世がどちらの状態であろうと、お前が心を乱し悩む必要などないはずだ。お前はすでに死亡し破滅しているのではないだろうな。単なる動物となって、偽善(ぎぜん)に染まって、草を食べているだけのものではないよな。

 神々は、何一つなす力を持たないか、あるいは、強大なる力を持っているかのどちらかだ。もし、力を持ってなどいないのならば、われわれは神に祈る意味などない。もし、その力を持っているとしても、この世に生み出されたものをこうしてほしい、ああしてほしいと祈ってはならない。むしろ、万物に対して、自分が恐れること、欲望すること、悲しむことがないようにと祈るべきではないのか。神に人間を手助けする力があるのなら、神はすすんでその手をさしのべてくれるのではないのか。
 たぶんお前は、神は「そういうことは自分でしなさい」と言われると述べるであろう。それなら、お前の力ではがどうすることもできないことに、悪心を持って言い争うよりも、自分ができることを、自由な心で行う方がはるかに良いのではないか。そもそも、神は自分でできることには手助けなどしないと言ったことがあると何の根拠で判断するのか。ともかく、次のように祈ってみよ。そうすれば、世の真実が分かるようになるはずだ。
 「彼女を自分のものにできますように」ではなく「彼女を自分のものにしたいというようなよこしまな欲望を起こしませんように」と。また、「労苦から解放されますように」ではなく「労苦から解放されることを必要としませんように」と。また「子どもを失いませぬ」ようにではなく「子どもを失うことを恐れませぬように」と祈れ。

 たとえ病気になろうとも、病気のことは一切口に出さず、いつも自然を探究する哲学者であることを貫いた人間がかつていた。
 お前がもし病気にあるいは厄災に見舞われたとしても同じようにせよ。自然を探究する哲学者たる者は、どんなことがあろうとその哲学を手放してはならないのである。

 恥知らずな人間に怒りをもつなら、この世に恥知らずの者が存在せずにすむのかと問え。それが不可能なことと分かるならそのようなことは願い求めるな。彼もこの世界に存在しなければならない人間の一人なのだからだ。
 このことは、悪党や信義にもとるやから、罪人と出会っても忘れないことだ。彼らもまた同じことなのだ。彼らもまた、存在しなければならない者なのである。そうであるのなら、お前は、彼らに温かい想いをもって接することができるようになるのではないか。
 また、これらの過ちに対して、自然はどんな徳を人間に与えたかを考えてみることも有益である。恥知らずの人間に対しては温和な心が、その他の人間にはそれに見合うものが、一種のそれらに対する解毒剤のようお前に与えられてはいないか。もしそれを、正しく用いるなら、そのことが彼らをただすことにつながっていくのではないか。
 過ちを犯すものは、自分の務めから足を踏み外した迷える者なのだ。お前は彼らからどんな害悪を受けたというのか。お前が憤慨(ふんがい)する当の相手は、お前の精神を劣悪にしたのか。気付け、お前の精神の害と災いはお前の心の内にこそあるのだ。
 無教育なものが無教育なことをしたからといって何が奇怪なことなのだ。むしろそのことが予見できなかったことに対してお前が責めを受けよ。彼が、そのような状況に陥らないようにする手立てをお前は与えられていながら、それが起こったからといってお前は愕然(がくぜん)とするのか。

 ある人に対して約束を守らないとか恩を忘れるやつだと非難する前に自分の内部に目を向けよ。彼らが信義を守るであろうと考えたことも、打算抜きに恵みを与えかつその成果をすぐに得ようとしなかったことも、すべてお前に責任があるのではないか。人に親切をほどこして、何を見返りとして求めるのか、報酬を求めるつもりか。お前の本性に従ってことをなしたのならそれで十分ではないか。それは、まさに目がものを見るからといって、足が歩くからといって報酬を求めるのと同じではないか。

 すべてのものは、そのものの存在理由によって生じ、その存在理由を実現することにより、それ本来の機能を発揮しているだけのことである。それと同じように、人間もまた、人に親切にするべくして生まれたのだから、人に親切なことをする、また公共のために尽くすということは、そのものがその本性の目的を果たしていることであり、その本性に従って行動しているだけのことなのである。

 お前の魂は、いつ、単純な、単独の、肉体よりは澄んだ清いものになるのだろうか。友情と親愛にあふれた心情を楽しむことがあるのであろうか。充実し、他を必要としないものとなり、快楽のために何ものかを熱望することもなく、むやみに何かを欲求することもなくなるのであろうか。享楽(きょうらく)のためにより長い時間を欲することもなく、快適な居場所も気の合う人々をも欲しないようになるのであろうか。

 お前の魂は今、現在の状態に満足し、現在あるすべてのものに悦びを感じているのか。すべては、神々より与えられたものである。それはすべて良いもので、将来も良いものであり続けるであろう。自然の摂理(せつり)は、万物を生み出し、それが役割を終えれば分解し、そしてそれを材料にまた新たなものを生み出す。その者がわれわれに与えるものはすべて、この世において意義あるものであり、今後もそのようにあり続けるものだ。お前は神も同胞も非難することなく、また糾弾(きゅうだん)されることのない人間となれるのか。

 お前は、自然が与えたお前の本性をしっかりと観察し、その求めるものが何であるかを見きわめよ。そして、それがなんらかの事情で良くない状況に陥らされない限り、その本性にしたがって行動せよ。
 そしてその行動とは、公共的性格をもった行動でなければならないが、その行動によりお前の本性が悪いものにならないかぎりそれを全面的に受け入れることだ。それらのことだけを心して日々行動せよ。

 この世に生まれでるものは、お前にとって耐えることができるものか耐えることができないものかのどちらかである。耐えることができるものであるなら不機嫌になることなく耐えればよい。もし仮に、耐えることができないものであっても決して不機嫌になどなるな。なぜならその耐えがたきものも、お前を消耗(しょうもう)しつくしたうえで、それ自身もやがては消滅してしまうものに過ぎないからだ。
 ただ、しっかり考えてみよ。耐えることができるものは、実はお前が耐えるものとして自ら引き受けているものなのだ。それはお前にとって有益なものと自らが考え、それが自分自身に課せられた義務だと考えているものなのだ。

 人が過ちを犯しているのを目にしたら、好意をもって穏やかにそのことを教え諭(さと)し、その見落としている点を指摘(してき)せよ。それがお前にできないというなら、お前自身を責めよ。そうでなければ、誰も責めるべきではない。

 お前に起こることは、お前の誕生するはるか以前からお前のために準備されてきたことだ。また、いろいろな原因の積み重ねがお前の誕生からお前に起こる出来事を無限の過去から紡(つむ)いできたのだ。

 この世が単なる原子の群れであるか、あるいは秩序あるものかに関わらず、ともかく、お前は自然の原理に統率(とうそつ)された宇宙の一部であることは確かだ。また、他の多くのその一部をなすものたちと密接な関係にあることを認めなければならない。
 それなら、その全体から与えられたものに不機嫌になることなどないはずだ。なぜなら、全体に有益なものが、部分に有害であることなどあるはずがないからだ。さらに言えば、この宇宙を統率する意思は、外部の力に強いられて、己に有害なものなど生み出すことは、絶対にないからである。
 お前は今、目の前に起こることに何の不満もいだくことはないはずだ。だから自分とそのもとを同じくするものが密接な関係にあるがゆえに、公共のことを無視することは決してせず、公共の利益のために尽力すべきであるのだ。この原則により行動がなされるならば、万事がうまくいくのは間違いないことだ。一人の市民として他の市民を利することを実践し、国家から与えられるものは悦んで受け入れるという人間であれば、物事がうまくいくというのと同じことである。

 自然の本性により宇宙の中に生成され、今現在、存在するものは、必然的に消滅させられる運命にある。ただ、消滅とはなくなることではなく、違うものに変化するという意味である。しかし、この避けがたい仕組みは悪いものであろうか。もし、これが悪いものであるというなら、宇宙とは決して良くできているものだとは言えないことになる。

 いったい宇宙は、自分が生み出したものに害を与え、そして生み出されたものはその害に抵抗しながらもさからえず悪の道に進ませられるようなことになっているのであろうか。それとも、宇宙はそのようにすべてのものを悪に導いていることに気づかないのであろうか。とてもそのようには考えられない。
 また、すべてのものは変化するものだという一方で、もし、お前がこの世に生まれ出たものにそれは生まれ出るべきものではなかったなどと言い不機嫌な気持ちを持つのはおかしいではないか。また、個々のものが分解していくのを見て同じような態度をとることも明らかにおかしいことである。
 なぜなら、分解とは、すべてのものが作り上げられた前の元の状態に戻ることであるか、永遠に繰り返される転換の一つであり更新であり、一旦宇宙の理性の中に取り込まれるだけのことだからなのだ。
 また、われわれ自身は、すべて外界から取り入れたものを変えることによって、自分自身をつくりあげているのである。変化によって成り立っているということは、変わることのない真実ではないか。

 善良・誠実・思慮(しりょ)・協調などの名称を与えられたら、それらを失わないように心してこれらを保持することに努めよ。例えば、「思慮」とは軽率(けいそつ)な思考に陥らず、精神を集中させて物事を判断することである。ただ、人々からそのように呼ばれ、思われることに執着(しゅうちゃく)してはならない。もしそれを成し遂げられるならば、さらにお前は進歩できるのだ。
 なぜかといえば、今までの生活のように日々の活動に引き裂かれ、生に執着するところから一歩歩み出るからである。今までのお前はまるで闘牛場に投げ出され噛み裂かれた闘牛士なのであった。そして血まみれになりながらもまた翌日にはそこに投げ出される、そのような人間だったのだ。
 だから、先にあげたような名称のところに留まっていよ。もしそこに留まる力を持てないなら、この世の生から去るしかない。そのような覚悟を持て。このことを忘れないためには、まず神々のことを考えよ。神々にへつらえと言っているのではない。神々が欲することは、お前をふくめすべての生成物がその本分を果たした生き方をすることだからなのである。

 茶番劇(ちゃばんげき)・戦争・奴隷根性などが、自然の摂理とは何かを追い求めていこうとするお前の聖なる想いを消し去ってしまうことを忘れるな。
 それならお前はいかにすればよいのか。現にお前にふりかかることに対して立派に対処(たいしょ)すること、学問にいそしみ、そこから得られる知識に自信を持ち、それをみせびらかすこともなく、また妙に隠すこともなく行動することだ。
 それでは、その知識とは何か。それは、事物の本質とは何であるか。それはいつまで存在するのか。その存在目的は何なのか。それは何からできているのか。その持ち主は誰なのか。それを与え奪うことができるのは誰なのかというような知識なのである。

 蜘蛛(くも)は蠅をとることを誇りとし、あるものは野兎(のうさぎ)をまた魚をまたイノシシをとることを誇りとする。しかし、考えてみれば彼らはみな強盗なのである。

 万物がどのようにして相互に変化するか、注意深く観察せよ。これ以上に自分の精神を磨(みが)くことのできることはない。それは肉体という束縛(そくばく)から離れることにもつながっていく。まもなく、自分はすべてのものを残してこの世から去っていかなければならない。自分の行いについては正義にすべてを委(ゆだ)ね、それ以外のことは宇宙全体に自分を委ねるのだ。
 自分に対して人が何を言い、自分を非難するどのような行為に出るかなどは何の気にもするな。自分の行為を正義にのっとってなし、天から与えられたものを愛するなら、それだけで十分である。あくせくすることはやめて、真っ直ぐな道を歩み、真っ直ぐに進む神のあとに従えばよいのである。

 自分が何をなすべきかがわかったら、脇目(わきめ)もふらずその道を進め。もしわからないなら、最も信頼できる相談相手に尋ねよ。だが、そこに外部からの障害が立ちはだかったら、手元にある手段や方法を活かし、事情を冷静に判断して、正しいと自分が思うものに即してあきらめることなく行動せよ。理性に従うものは、悠々(ゆうゆう)としていて明朗で節度を失わないものなのである。

 眠りより覚めたら、すぐ自分に尋ねよ。自分が正しいと思う行為をして、それを非難されても平気でいられるか。また、おごった態度で他人に接し、ほめたかと思えばけなすような人間になってはいないかと。そのような人間は、いつどこにいても変わらない態度しかとれないものだ。さらに、そういう連中はいかなることをして、いかなることを避け、どのようなものを追い求め、盗み、奪っているかを考えてみよ。さらに、しっかりと考えをめぐらせてみよ。それらの行為は、実は自分の中にある信義、誠実などと思い込んでいる部分によってなされがちだということである。このことをいつも思い、自分を反省することを忘れてはならない。

 教養あり慎(つつし)みあるものは、自然に向かって謙虚(けんきょ)に頭をたれて「あなたが欲するものを与え、あなたが欲するものを取り上げてください」と言うであろう。

 お前に残されている時間はわずかである。山の中で静かに生活するように生きよ。宇宙という広大なものからすれば、山中も都市も何の変わりはないはずだ。人々に対して誠実な人間であれ。もし人々にとってお前が我慢(がまん)ならぬものであるなら、彼らにお前の首をはねさせよ。そのまま生きるよりははるかにましである。

 良い人間とはどんな人間かを討論するときではない。良い人間になる時だ。

 永遠の時、存在の全体というものを想い描くと同時に、お前は全体の一部分にすぎないものであること、ほんの一瞬の存在にすぎないことを知れ。

 存在するすべてのものは、今も変化や雲散霧消(うんさんむしょう)の経過をたどっていること、また死すべきものであることを想え。

   周囲に君臨(くんりん)し威猛々(いたけだけ)しく振る舞い、怒りにまかせ人を叱責(しっせき)非難する人間が、ほんのわずか前にはどれほど多くの人々の足元に隷属(れいぞく)していたことか。またその人間がそのあとにも元の状態にもどってしまうことであろう。

 本性がもたらすものは、いつでその時に有益なものであるのだ。

 大地が雨が降ることを求めるように、宇宙(天)は雨を降らせることを求めるのだ。つまり、宇宙は生起する定めのあるものを生み出すことを欲しているのだ。私も宇宙とともに万物が生み出されていくことを望んでいますと述べる。

 お前はここに今生活している。あるいは、ここから出てよそに行く。あるいは、務めを果たしこの世を去ろうとしている。それでよいのだ。元気を出し心朗(ほが)らかであれ。

 お前の精神を支配するものは、いかなる意味をもつか。また何の目的で働いているか、絶えず考えよ。公共性から離れてはいないよな。肉体の欲求にからみつかれ、きりきり舞いさせられているのではあるまいな。

 主(あるじ)から逃げてはならい。主とは法である。法を犯す者は逃亡した奴隷である。悲しんだり、怒ったり、恐れたりする人間は、過去・現在・未来のこの世の摂理を受け入れない者である。万物の摂理から逃亡した奴隷である。

 男は子種を母胎(ぼたい)に入れたら離れていくが、あとは別の原動力がそれを引き受け胎児(たいじ)へと育てていく。巧妙な生成過程だ。人はのどを通して食物をのみくだすが、あとは別の原動力がそれを引き受け、生命のエネルギーを生み出す。これらは人目につかずひそやかに行われているが、はっきりとその事実を見きわめることである。

 今日生ずるものが、以前にも生じ、未来にも生ずることを想え。それはすべてのものに言えることである。そのように、どの国のどの宮殿もすべて同じ性質のものであり、異なるのはただ登場人物だけなのだ。

 何事であれ、悲しんだり不機嫌になる者は、地面をけり悲鳴をあげる生け贄(にえ)の子豚と同じようなものだ。われわれはいろいろなことに巻き込まれているが、生起することに納得したうえで従うことができるのは理性のある人間だけだ。その他のものはただ否応なく従っているだけだ。

 人の過ちを腹立たしく思うときは、自分について考えてみよ。お前は、金・快楽・名誉を良いものだとみなす過ちを犯していないかと。このことに注意を向けるなら彼の過ちは強(し)いられての結果であることが分かる。そうすれば、怒りは消える。もしできるなら、彼からその強制しているものを取り除いてやれ。

 今まで、多くの皇帝がこの世に現れた。彼らは今どこにいるのか。どこにもいない。どこにいるのかを誰も知らない。人間など煙であり、無に等しいものだ。また、ひとたび変化したものは、永遠に存在しないことを想い描け。
 それなのに、お前はなぜ心を張りつめ、神経をとがらせるのか。なにゆえ心を乱し、その永からぬ命を生き終えることに満足しないのか。人生とは理性の実習の場なのだ。
 強健(きょうけん)な胃が摂取した食物をすべて血と肉に変えるように、また燃え盛る火が投げ込まれたものをすべて炎と光に変えてしまうように、お前は人生を刻苦精励(こっくせいれい)して生き、そして心静かに死というその時を待てばいいのである。

 お前は素朴純一な人間ではない、また善良な人間でないと後ろ指を指されるようなことがないよう心せよ。そのように語る人間はうそつきだと言われるようにしなければならない。
 すべてはお前の心がけしだいだ。お前が善良で素朴純一であることを妨げる誰かが存在するとでもいうのか。善良でない人間となるなら、これ以上生きながらえることなどしないと決意すべきだ。

 お前は、天から与えられた材料をもとに、人間の本性に従って、日々の言動や活動を行うことである。そしてそのことを楽しみとせよ。理性をもたない水や火はどこにあってもその固有の働きを続けるということはできない。しかし、理性を持つ者は、それに立ち向かう障害物を自ら排除して、進むことが許されている。この突破する力を見失うな。それ以上のものを求めるな。障害となりうるものがあるとすれば、それは自分の肉体的なものにあるか自分がいだく想念にあるかである。
 人間以外のものは、立ちはだかる障害によってそのものは悪となるが、人間はその災いに対して正しく対処することにより自分をより優れたものにすることができるのだ。国家に害を与えない市民にお前は、害を及ぼすことがあってはならない。また、法を損ねない国家に対して害を加えてはならないのである。つまり、法を損ねることのない市民や国家に害を加えてはならないのである。

 みるからに信頼できる口調で大声で呼びかけ、派手なほめ言葉で人を持ち上げる者、あるいは反対に呪(のろ)いの言葉を吐(は)きかける者、さらには影に隠れてこっそり非難し嘲笑(ちょうしょう)する者、またわれらが死後の名声を語り継ぎ行く連中、すべてのものが風に吹かれて地上に舞い落ちる木の葉と何ら変わらない。
 そしてその木には、また新たな葉がつくのである。すべてが束の間のことである。
 ところが、お前は永遠に生きるがごとくに行動し、あるいはそれらについて考える  ことさえ避けているが、いつかはその目も閉じる時が来るのだ。そしてお前を葬(ほおむ)った者もやがては別の者によって葬られるのである。

 健康な目はすべてのものを見るのであって、緑のものだけを見たいと言ってもそれは許されない。それは病んでいる目だ。聴覚であろうと臭覚であろうと、それらはすべてのものを悦んで受け入れなければならない。健康な精神もまた、生起するすべてのものを悦んで受け入れるものでなければならない。「自分のなすことは何でも人がほめてくれますように」「子どもが助かりますように」と願うことは、緑だけを見ようとする目、柔らかいものだけ求める歯、つまり都合のいいものだけ受け入れるということと何ら変わることはないのである。

 自分が死んでいくとき、この悲しい出来事を喜ぶ連中などいないということは幸福なことではあるが、そのような幸せな人間などいないというのが現実であろう。どんな立派な先生であったとしても、その死の前で「これでやっと、この先生から解放されて一息つける。決してわれわれに辛くあたる人ではなかったが、無言のうちに叱責(しっせき)の目を向けていたと感じていた」と独り言を言うような人間がいないと言えるであろうか。ましてや、先の先生のように、立派でもないわれわれから解放されたいと望む人間はどれほど多くいるであろうものか。
 死ぬ時、このことを想い抱くべきである。自分があれほど一所懸命に闘い、祈り、配慮してやった人々がむしろこの私の死を求め、そこから生ずるある種の清新(せいしん)な解放感にひたっているという状況の中で自分は死を迎えるのである。そのような状況の中で死を迎えるがゆえに、お前は満足してこの世を去るべきではないか。いったい、この世に少しでも長く時を過ごすことに執着する必要があるのか。
 だからといって彼らに対する親切心を鈍らせて去っていくのであってはならない。友愛に満ち、親切な優しい心をもって去っていけ。ただ、仲間からまるで引き裂かれるようにではなく、朗らかにごく自然に彼らから去っていけ。自然はお前を死によって人々から解放させるのである。死はぎこちなく無理なものであってはならない。なぜなら、死もまた自然に従って生ずることの一つだからである。

 行為のすべてにその目的は何かと探究せよ。それは外部に求めても無駄だ。その答えはお前の内部にある。それをいつも心に銘記(めいき)せよ。

 理性を持つ人間は、自らの魂で自己がいかにあるべきかを考え、自己が過っていればそれを正して、自己というものをつくりあげ、そしてその成果を自らが刈り取るのである。理性を持たない植物などは、自分で自己をつくりあげることもないし、その成果は他のものにより刈り取られるのである。理性を持つ者は、その生涯の最後がいつであろうと、その目的に向かって進みかつその目的に到達するものである。その意味では、例えば演劇は途中で邪魔が入ると、そこでそれは不完全なものとなってしまうが、人間の人生はそれとは違う。どんな障害に遭遇しようとも、己に課された仕事を充実して行いかつ自足することができていれば、それで完成なのである。

 理性とは、宇宙全体を考察することができ、永遠の時のかなたまで広がり、万物の周期的再生を把握することができるのである。ゆえに、自分より以前以後の者も、自分が見た以上のものを見ることはないのである。少なくとも40才を超えた者は、知性を持っている限り、当然のこととして今まで起こったことも、今から起こることもすべて見ていることになるのだ。

 また、理性的な魂に固有なものとは、身近な人々と真実を愛すること、恥じる心を持つこと、そして自己を尊重することである。この意味において、理性と正義や法は同じものなのである。

 音楽や舞踏(ぶとう)を個々の音や姿勢に分解して、各々を聞いたり個別の場面のみを見ても決して良いものとは思わないであろう。このことは人生についても言えるのだ。部分的なものに走るのではなく全体をとらえよ。

 死を迎えてもその覚悟ができている魂とはなんとすばらしいものか。それはむき出しの反抗精神に駆られたものではなく、論理立った、威厳(いげん)のある、落ち着いたものでなければならない。また、他人を説得できるようなものでなければならず、芝居じみた大げさなものであってはならない。

 私は公共のために生きてきたか。そうであるなら、もう十分報われているはずだ。 この真理を肝に銘じて、一瞬たりともなまけることなどないようにしなければならない。

 立派な人間であるためには、宇宙の原理と人間の原理を知っていなければならない。

 たとえ人生における悲劇といえども、それはなるべくしてそのようになったものである。それを苦々しく思うべきではない。私の運命がどんなものであろうとそれは理由があってのことである。また、事物そのものに怒りをぶつけてもしょうがないのである。また喜劇といえるものもあるであろう。その意図とはなんであるのか。人生とはいったいいかなる目標をもって企画されるのであろうか。

 お前の今の生活条件は、哲学を学ぶうえにおいて非常にすぐれた状態にあることを考えてみたことがあるか。

 木の枝が隣の枝から切り離されるということは、その木全体から切り離されることを意味する。同様に、人間がある一人の人間から引き離されるということは、社会全体から逸脱(いつだつ)することを意味する。枝は人間が勝手に切り取るが、人間にあっては、身近な者を憎み、彼に背を向けることにより、自らがその者から自分を遠ざけるのである。そしてそれが社会全体から自分を切り離すことにつながるのである。
 当然、人間には再び隣のものと共にあるようになり、社会に復帰できる機会は与えられるが、そのような離反と復帰を繰り返していると、回復がだんだんと困難となってくる。もともと共に誕生し同じ生命力のなかで育ってきたものが、一旦切り取られれば、たとえ接ぎ木されようとも、完全に元の状態には戻れないのである。もちろん、他者と同じ考え方を持てといっているのではない。根幹(こんかん)は一つであるべきだと言っているのである。

 お前が正しいことを行っているのなら、誰かがそれを妨害しようとしても、それは不可能である。むしろ、その妨害行為が理由で、彼らに対する寛容な心と温かい心を失うことがないように気を付けよ。
 いや、進んで次の二つのことに気を付けよ。一つは、自分は誠実な判断をし、誠実に行動をしているかということ、二つ目は、自分を妨害しようとする者や自分に対して悪い感情を抱いている者に柔和な心でいるかどうかということである。すなわち、妨害者に怒るということは、自分が正しいとして行っている行為を自ら放棄することであり、その恐怖にとらわれてしっぽをまいて逃げるのと変わらないのだ。つまりお前の弱さの表れなのである。
 妨害者は自分の同胞に背きその絆(きずな)を自ら断ち切ったという意味で、また妨害されることを恐れてその行為を放棄する者も、共に自分の持ち場を捨てた逃亡兵と同じなのである。

 自然はいかなるものでも、人間の技術に劣るようなものではない。現に人間の技術は、多くの自然のものを模倣(もほう)して生まれているではないか。それなら、それらのもろもろの自然的なものを包括(ほうかつ)した大自然と呼ばれるようなものが、人間が生み出したどんな技術や技巧にも劣ることなどあるはずがない。

 あるものを追い求めること、またあるものを避けることによって、お前の心が惑わされるなら、まずお前からそれらについての判断は差し控えよ。そうすればその対象も不動のままであるすだ。

 魂は、何かに対して突出したり、委縮(いしゅく)したりすることもなく、拡散したり崩壊したりすることもなく、光に照らされ万物の真理とおのれの真理を知る限り完全な形でそれを保持するものなのである。

 人が私を軽蔑(けいべつ)しようと、それは彼の思いであり私には何の関係もない。私の心すべきことは、他人が私が軽蔑に値するような行動をすることを見つけようとしても、見つけることができないようにすることである。
 私を嫌う人がいても、それはその人の思いである。ともかく、私は人々に好意と親切心を持って行動するのである。そして、私を嫌う人に対して、その過ちを指摘するにしても、決して非難がましい態度を取らず、また我慢しているんだといわんばかりの態度に出ることもなく、誠心誠意(せいしんせいい)男らしい善意にあふれた心で事を為すことである。そういう人間にならなければならないのだ。

 人間とは、何事に対しても、楽しんで行っていないこと、苦しんで行っていることを聞えよがしに神の目にさらすべきではないのだ。

 お前が本性にかなった行動をし、公共のために為すべきことをするなら、何ら悪くなることなどないのだ。

 人は、内心軽蔑し合いながらも外面では相手に従うような態度をとり、内心では優越を競いながらも、表向きは互いに譲り合うものである。

 「ぼくは、単純素朴な気持ちで君と付き合うことにした」などと言う必要などなにもない。それは態度に自然と表れるものである。そもそも、ある人が善良なる人間かそうでないかは、そばに近づいただけで分かるものである。善良な心持った人間はすべてにそれが表れている。恋するものの瞳(ひとみ)の中にその想いがおのずと表れ、恋人がそれを理解するのと同じことである。

 善でも悪でもないものに無関心であれ。そうすれば、お前はこの人生を立派に生き貫くことができるはずだ。これらの善でも悪でもないものは、われわれの心に何らある意見を植え付けることもなく、われわれに迫ってくることもなくじっとしているものである。むしろ、われわれがそれらを追いかけ心のなかに留め置こうと、それに対する判断を生み出そうとするのだ。もともと、書かずにすむことであったのだし、仮に書いたとしてもすぐ消せるものだったのだ。それを依怙地(いこじ)になって心に描きつづけたのである。

 あれをせよ、これはするななどと考えさせられるのは人生というわずかの時間の間だけのことだ。そのことで不機嫌になることなどないはずだ。自然に従い、それが本性にかなうことなら、悦んで進めばよい。たやすいことであるはずだ。もし、自然の本性に反していると考えるなら、お前の本性に即しているものが何であるかを探し求めよ。そして自分がかなうと考える道を進めばよいだけのことである。

 ものすべては、どこからきて、何から成り、何に変わり、そしていかなるものに生まれ変わるか考察せよ。自分の身にふりかかることは何であれ悪いことなど何一つないはずである。

 第一に、私と人々の関係はどうなのか。われわれは、お互いのために生まれてきたのである。違った論点から言えば、私は人々を監督するために、いわゆる羊の群れを導く犬のような役割のために生まれてきたのである。この世には無数の原子が存在し、それらを支配する自然の本性がある。同様に、多くのより劣ったものと優れたものが存在し、前者は後者のためにあり、後者はお互いのためにある。
 第二に、人々はどのような思いを持ち、何に駆(か)られて、何に強制されて、どんな自負心を持って行動しているのか。
 第三に、人々が正しい行為をしているならそれでよい。正しくない行為をしているのであれば、彼らはたぶん無知であるがゆえにそうしているのである。ゆえに彼らはそれを指摘されると憤慨するのである。
 第四に、お前自身も彼らと同様に多くの過ちをおかすものである。過ちと呼べるほどのものをしないまでも、それを生み出す奴隷根性、名誉欲などの性情(せいじょう)は未だ持っている。
 第五に、人々が実際過ちを今犯しているかどうかが分かっているわけではない。他人の行為についてしっかりと把握するためには多くのことを学びとらなければならないのである。
 第六に、ひどく悩んだり、我慢ならぬと思ったりする時は、人生とは束の間で、遠からずすべてのものは葬(ほうむ)り去られると想え。
 第七に、お前を苦しめるのは、彼らの行為にあるではない。それに対していだくお前の想いにあるのだ。それならお前の想いを見直せ。彼らの行為が悪いとするお前の判断を捨て去れ。そうすればお前の怒りは消え去るのだ。
 それならどのようにしたらそれを捨て去ることができるのか。彼らの行為は決して恥ずるべきものではないと考えることだ。なぜなら、恥ずべきものがすべて悪であるなら、お前自身もしょっちゅうその過ちを犯しており、強盗と変わらないといえるからだ。
 第八に、それらの行為に対して抱く怒りのほうが、その行為がもたらす悪い影響よりもはるかに多くの悪影響をお前に与えるからである。
 第九に、親切心は、それが真のものであればすばらしいものだ。おまえに良からぬことを企てるものには、わが子に諭(さと)すようにそうすることは、私ではなくあなた自身のためにならない。そのことによって害をうけるのは私ではなくあなた自身だと話して聞かせるなら、彼は、私に対して害を及ぼすようなことが続けてできるであろうか。
 そしてそのようなことは、自然に暮らすどんな動物もするようなことではないと指摘することである。ただそれは、皮肉まじりに、非難がましくすべきではなく、他者からの賞賛のためにすべきでもない。周りのものから離れ、ただ本人だけに向かってなすことである。

 以上の九項目を肝に銘じて、生きているうちにそれを実行することを始めよ。人々に怒りをいだくことも、媚(こ)びへつらうこともやめよ。それらは公共を無視し、災いに導くものである。怒りに駆られるときは怒ることが男らしいのではなく、穏やかで紳士的であるのが人間的であり、男らしいのだ。強さ勇敢さは、そのような者の中にあるのだ。
 悲しみが無力なものであり傷つき屈服(くっぷく)するものであるように、怒るということも傷つき、屈服してしまうということなのである。
 もし第十にあげるとしたら、つまらぬ者が過ちを犯すであろうことを予期しなかったことはお前の落ち度だということだ。彼らが、自分以外の他人に対して過ちを犯すのは黙認しておきながら、彼らが自分に対して過ちを犯さないように求めることは、愚かな身勝手なことではないか。

 人の思いの偏(かたよ)りには4つのものがある。それは、ある事象に直面した時、このことは必然的な出来事であると考えてしまうこと。そして、このことは、けっして社会を破壊するものではないと勝手に判断してしまうこと。さらには、このようなことは私の心の底から発し、生み出したものではないと言い訳すること。あと一つは、肉体の欲求に敗北してしまということである。

 お前は、自分の体内に存在するもの中で、火のように上昇すべきものをその場にとどめたり、土のように落下すべきものを押しとどめたりしているのではないか。すべては万有の秩序に従っているのであり、解放と離脱の合図がなされないかぎり、その決められた一定の場所にそれらは移動しなければならないのだ。
 何もお前に対して、自然の本性が逆らってそのことを無理やり課しているのではない。それこそが自然の本性に適っているからなのである。
 それにもかかわらず、お前はその本性と正反対の道に進もうとしているのではないか。不正・放縦(ほうじゅう)・悲嘆(ひたん)・恐怖に向かう動きこそがそれなのである。
 何かの出来事に腹を立てるということは、お前の心の本来のあり方に反するということではないか。

 変わることのない人生の目標を立て、それを生涯貫け。人々にとって自分の人生の目標は何かと聞いた時、その答えは千差万別であろう。ただ、国家公共に関して自分はいかにあればよいかと聞いた時の答えは、一致するのではないか。国家公共に対するお前の目標をはっきり定めねばならない。そしてその目標に個人的な欲求をすべて向かわせるなら、その人間の行為は変わることのない、不動な心を持った人間となることができるのである。

 大衆の考えは、扇動(せんどう)されると、ある意味恐いものともなる。

 人は、客人に対しては、自分を差し置いても歓待(かんたい)すべきである。

 一方、歓待を受けながらも、みじめなお返ししかしないようなことはすべきではない。

 徳を行い、徳に生きた、過去の偉人をいつも心に思い浮かべよ。

 天を見よ。そこには永遠に同一不変の仕事をなし続ける数々の存在がある。

 人に教え導かれる前に、さも知っているかのように人を教え導くな。

 冬にイチジクを求めること、子どもを産めない年齢になって子どもを求めることもばかげたことである。

 幼子を愛撫しながら、お前は明日になったら死ぬかもしれないなというのは、縁起でもないことだろうか。それなら稲の穂が刈り取られるという言葉も縁起でもないことになる。

 熟していないブドウ、熟したブドウ、干しブドウ、それらは変化である。無への変化ではなく、違う存在への変化である。

 他人の自主的な決断を強奪しうる人間など現れっこない。

 人は自分の欲求に対して監視しなければならない。
 欲求のもととなるものは公共の精神でなければならない。

 お前が成し遂げようとすること、得ようとするものは、実はお前が自分自身を恨(うら)むことさえなければ、すでに手に入れているのである。この「自分自身を恨むことがなければ」とは、いったい何を意味しているのか。それは、過去のことはすべて捨て置き、未来のことはすべて神にゆだね、ただ現在のことのみを敬虔(けいけん)に正義に向かって真っすぐに進み行うということである。

 敬虔な心持ちとは、お前に天から与えられるものをすべて愛するということである。なぜ愛さねばならないのか。それは、それらは自然の本性がお前のためにもたらし、出会わせたものだからだ。
 また、正義とは自由な精神で真実を語り、法に則ってそれぞれのものにふさわしい行動をとるということである。人の悪も自分の判断も人の噂(うわさ)も、この行動の妨げになるならそのままにさせておいてはいけない。特にお前の肉体的な欲求がそれを妨げようとするならそれを許してはならない。

 いつかは訪れるであろう死を恐れず、むしろ未だ自然の本性に適(かな)った生き方をしていないことこそを恐れるのだ。そして日々の出来事を予想外に驚いたり、いたずらに他に頼るような態度もやめるべきだ。そうすれば、この祖国にとって、宇宙にとってもふさわしい人間となることができるのだ。

 神は自分より流出して人間の内に入り込んだ理性というものをそれを覆(おおう)うものからむき出しにして見る。そのようにお前も自分の理性をすべて裸にして見る習慣をつけなければならない。そうすれば、お前の心を乱すものなどからはお前は解放されるはずだ。そもそも、自分を覆う肉体などに目を奪われることなく、理性そのものだけを見ている者は、衣装・住居・名声などの類(たぐい)に目を奪われることなどないのである。

 お前を構成しているのは、肉体・呼吸・理性の三つである。前者の二つはお前が世話をする限りにおいて基本的にお前に属するものである。しかし、理性は、本質的に真にお前自身なのである。もしこの理性から他人の言行やお前の過去の言行を引き離し、未来のお前の心を乱すであろうものからも引き離し、肉体やそれに関わるものまた、外からやって来てお前をきりきり舞いさせるもの、そのようなものからすべてから引き離すことができたとしよう。そうすることができれば、お前の理性は運命のしがらみから救い出され、けがれなき姿となって自由・自主・独立し正義にかない天から与えられるものを悦んで受け取ることができるようになるであろう。さらにお前は妄執(もうしゅう)からものがれ、未来や過去からも解き放たれ、現在のみを生きるように修練するとしよう。その時こそ、お前は死ぬまで心乱されることなく愛情にあふれ、温和な心で変わることなく生きることができるのである。

 人は自分を最も愛するくせに、他人のくだす判断を自分の考えより重視するのはおかしいと思う。
 人間は自分について考えてはならないとか、心に思ってはいいが口に出してはならないと言われたら一日も我慢できないであろう。
 われわれは、自分自身の考えよりも他人が自分をどう思っているかを恐れ、気にするのである。

 神々は、有能な最も深く敬虔に神と契約をかわすような、自分をたてまつってくれるような人間を、一度死ねばもう二度と生まれることはないとして消滅させてしまうようなことをされるであろうか。万事を人間のために整えてきた神がそのような見落としをしているのであろうか。
   もしそれが神の見落としではなく、そうすることが正しいといとしてなされているのなら、それが自然の本性にかなったことであるゆえにそれでよいのである。しかし、仮に見落としたというのなら、いまお前が抗議するようなことは、神がこの世を整える時にもした者がいたであろう。そのような状況の中で神は見落としなどするはずがないのではないか。

 とても成功しないと思われるようなことでも諦(あきら)めるな。日常で左手はあまり使わないから右手ほど役立たないと思うかも知れないが、たとえば茶碗を持つことなど左手の方が慣れていることも多くある。要は、訓練して自分のものとしているかどうかである。

 死が間近に迫ってきたとき、人間はいかなる状態にあるべきかを考えよ。また、人生は短いことを、一方では無限に広がる過去と未来を、またこの世に存在するもののはかなさを考えよ。

 物事の本質は、それを覆(おお)うものをはぎ取ったうえで見ることだ。諸々の行為の目的とは何か。快楽・苦痛・死・名声とはいったい何か。自分を忙しくさせているものは何か。決して人は他人から妨害されることはないがそれはなぜか。すべては自分の考え方が生み出しているのだということを悟れ。

 原理原則を使用する時は、剣を持つ剣士ではなく、自分のこぶしで戦う拳闘家(けんとうか)であれ。剣士は剣を失えば殺されるが、拳闘家は手を失うことなどないゆえに、こぶしを握ればなすべきことはすべて完了するのである。

 事物を見る時、素材と原因・目的とを分けて分析し、その本質を見抜け。

 神が人間にたいして褒めるようなことのみをして、神が人間に与えることはすべて悦んで受け入れるのだ。

 自然に生ずること、また必然的なことについて、神も人間をも非難することは許されない。なぜなら、神は一切、誤りを犯さないからであり、また、人間も知りながら犯す誤りなどないからである。

 何事であれ、人生において起こることに驚くことは笑止千万(しょうしせんばん)なことである。

 この世の出来事は、必然か神の配慮か、さもなければ無分別の混乱かのどちらかである。もし、必然ならそれに反抗しても何の意味もない。もし、神の配慮ならその配慮を受けるに値する人間となればよい。またもし、無分別の混乱なら、その中においてもお前が自分の理性を保ち秩序だって生きているということを誇りに思え。肉体はその無分別に流されるならそれにまかせ、理性だけを良い状態に保て。

 提灯(ちょうちん)の火は燃え尽きるまであたりを照らす。まさか、お前がこの世から消え去る前に真理や正義や慎みの徳がお前から消え失せてしまうことなどないだろうな。

 誰かが過ちを犯したと思うなら、まず、どうしてお前はそれが過ちだと考えたのか自らに問い正せ。そして事実、それが過ちに違いないなら、彼は自分自身を傷つけるがごとく断罪(だんざい)しているのだと、自らに言い聞かせよ。彼は、自分で自分自身の顔を引き裂いているのだと。
 つまらぬ人間が過ちを犯すことを快く思わないということは、イチジクが実ること、赤ん坊が泣くこと、自然の営みを快く思わないのと同じことだ。もしそれがお前の性情だというのなら、まず、お前の行動を慎ましくすることが先決だ。

 適切でないことはするな。真実でなければ口に出すな。すべてお前しだいだ。

 お前に数々の想いを抱かせるもの、それ自身は何であるかをつねに観察せよ。この世の万物は、なにで出来ていて、その存在原因と存在目的は何であるのか。また、同時にいつまでそれが存在しつづけるのか、そのようなことを見極(みきわ)めなければならない。

 お前は、ある時は自分自身の情熱によって操(あやつ)り動かされている。しかし、自分を行いに導ものは、それよりもより優れたより霊妙なものがあり、それが何であるかを知っているな。まさか、それは恐怖や猜疑(さいぎ)や欲望などと考えてはいないよな。

 まず、何らかの行動をする時には、それをでたらめに行うのではなく、絶えずその目的を意識することが大事だ。かつ、その目的とは、その行為が公共のために利益になることでなければならないのだ。

 遠からずお前はこの世からいなくなる。その他のものも、この世にあるすべてのものもいつかはこの世から消え失せていく。すべてのものは、新たなものを生み出すために、変化し、転換し、滅亡するのである。

 すべては、主観的なのであって、お前の考え方一つでどうにでもなるものだということを心に銘記(めいき)せよ。あるものを欲してやまない時には、そのものに対する想いを心から取り除けばよい。そのようにすれば、自分の心をいつも平静に保つことができるはずだ。

 ある行為をしていても、それを今、すべきではないと考えた時にすぐやめるのであれば、その行為が人々に悪い影響を与えることはない。人生におけるすべてのことも同じで、やめるべき時やめれば、どこにも悪影響など生じさせないのだ。それでは、その時とはいつか。それは、自然の本性が決めてくれるのであって、われわれはただそれに従っていればよいのである。そして、その時とは、自然の本性がこの宇宙を絶えず新しい状態に保つために定めていることだということは忘れるな。全体に利益あるものは美しくかつ正しいものである。人間が死んでいく時も、それが人間が意図したものでなく、同時に社会に悪影響をもたらすものでなければ、醜いものでも悪いものでもない。それが全体に益をもたらし、全体の中で行われるなら、それはむしろ善いものである。神の息吹を受けたものであるのだ。

 まず第一に、でたらめな正義の道から外れた行いをするな。自分に原因のない出来事は偶然に生じたことかあるいは天の神が起こしたことなのだ。だからその出来事をお前は非難することなどできないのだ。
 第二に、すべてのものは、誕生により組成され、死により分解される。それはどのような意味をもつのか考えよ。なぜつくられたのか、また分解の結果どうなったのかを絶えず考察せよ。
 第三に、もしお前が空から自分を含む万物の生活を見たとしよう。いかに多く些細なものがうごめいているかを知り、またすべてが束の間のものであり、そこにはびこっているものは空しい虚栄であると感ずるであろう。
 これら三つのことをしっかりと頭に留め置け。

   お前の考えていること、思いを投げ捨てろ。お前はそれによって救われるのだ。だれもそれをさまたげはしない。

 すべてのものは、自然の本性によって生じたものだ。それらが過ち犯しても、お前に何ら関係のないことだ。すべては、過去にも未来にも現在にも同様に起こってきたし、未来にも起こることだ。自分に起こることで、我慢ならない気持ちになったら、以上のことを思いだせ。さらに、お前というものは人類全体と深い関わりを持っているのだ。お前の理性は神を根源とし、そこから流出したものだ。お前の私有物などではない。またすべては人が心に描いたものであり、生きているのは、ただ現在においてだけだということを忘れるな。

 かつてあれほど人々に対し怒りや敵意をむき出しにしていた者や、逆に人々の名声や敵意を受けながらも頂点に立っていた者が今どこに生きているというのか。彼らはすべて、煙となり消えてしまっているではないか。いや、もはや人々の口に語られてもいないではないか。
 あるいは、人よりすこしでも抜きんでようとして競り合い反目してきた人間たちのなんと安っぽいことか。天から与えられた環境の中で正しく思慮深く生きることだ。小手先のことにこだわらず、自然に徹して素朴に行動せよ。傲慢(ごうまん)などつゆ知らないと言いたげな仮面をかぶった傲慢な人間こそ厄介(やっかい)ものである。  神はどこに存在するというのか、その存在を証明できるのかと言う者に対して私はつぎのように言う。
 第一に、神々はわれわれの前に姿を現していると。
 第二に、われわれは自分の魂というものを見たことがない。しかし、それにもかかわらず、その魂というものは当然存在していると考え、それを尊重している。神々に対しても同様である。神々の力のあらわれというものを私は実際に体験している。そのたびごとに、私は神々の存在を確信し、神々に対して畏敬の念を持つているではないか。

 人生にとって必要なことは、個々のものの成り立ち、そしそれが何であり、その存在原因が何であるかを、すべて知ることである。そして、それぞれの局面で、正しい行為、善き行いを続けることである。それだけである。

 光は、山や壁、どんな障害物によって分けられてもその根源は一つである。われわれも無数の個別な特性をもったものに分けられてはいるが、光と同様にその根源たる理性的魂は一つである。分けられているように見えても魂の根源はただ一つなのである。

 お前はいったい何を欲しているのか。生き長らえることか。感覚を持つことか。欲求か、成長することか。口をつぐむことか。言葉を発することか。
 しかし、それらが二次的なことであるのなら、それらをあとに回して、理性と神に従うという究極的なものに向かえ。死がそのことを奪い去るとでも言うのか。それなら今のべた究極的なものと死とは矛盾する、併存しないものになるのではないか。

 果てしない無限の時間の中で、どれだけの部分が各人に与えられているというのか。みな、速やかに永遠の中に消えていくのではないか。また、お前に対してすべてのもののうちのどれほどのものが、この大地全体に対してどれだけの場所が与えられているというのか。芥子粒(けしつぶ)ほどもないではないか。
 このことを肝に銘じ、おごることなく謙虚に自然に従って生き、自然がもたらすままにそれを受けることである。

 正しい行動をする限りは、時間の長短、人生の量などは問題ではない。ゆえに死も恐れるにあたらないものだ。

 お前は宇宙という大きな国家の市民であった。それが5年間であろうと3年間であろうと何の変わりもない。お前をこの世に送り出したものが、またお前をこの人生の舞台から退けるのであれば、何を恐れる必要などあるのであろうか。人生において、五幕を演じようと三幕だけであろうと劇全体を成り立たせているゆえ何の変わりもない。かつて結合の原因をつくったものが、分解を指図しそれを完了させるのである。神がすべてを決めるのでお前に何の責任もない。心穏やかに去っていけ。(終わり)(30 6/29)



 いかがだったでしょうか。自分の生き方に対するきびしさがひしひしと伝わってきます。これが全文です。

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